異呆人

毒にも薬にもならない呟き

出力安定

結婚して、2人で暮らすようになってから、自分自身が安定しているなと感じる。

それは愛しているからとか、愛されているからとか、支え合っているからとか、そんなロマンチックな理由からではない。

私が自分の時間や持てる能力を、妻に注ぎ込んでいるからだと言える。

それをして、妻を愛しているからだと言うことはできるだろうが、愛が安定の原動力であるわけではない。

 

私は今自分が生きている人生に対して、自分の能力というのは過剰だと思っている。

100%の力を発揮する場面なんてほとんどない。

大体において時間や能力を持て余しており、いかに隙間を埋めるかということに腐心している。

このブログなどはまさに私の持て余した思考エネルギーのやり場であり、時間潰しの場でもある。

あと、私が走ることが好きなのも、エネルギーを持て余さずに済むからである。

走ることに不完全燃焼などということはほとんどなく、いつも疲れ切って「もうこれ以上は無理」と思うまで力を尽くせる。

私はそういう「やり切った感」が好きなのだと思う。

 

普段の生活において、「やり切った感」を得られることは少ない。

自分の意思や力だけでどうにかできることなど、世の中そうそうないものである。

周りに歩調を合わせたり、誰かが足を引っ張ったり、タイミングが合わなかったり、そんなこんなで「80点か70点でも取れたら良い方」というものである。

少なくとも私は、そういう風に諦めている。

仕事でもさほど難しい仕事を任されるわけでもなく、「若い」ことを理由にプレーヤーとして使われるだけである。

今などは、ほぼ毎日定時で仕事を終えている。

時間も能力も遊んでいる。

時間潰しにやりたいことはたくさんあるが、「(お金さえあれば)仕事を辞めてこれがしたい!」というようなものは何一つない。

 

そんな風に生きているので、どこにも使われないエネルギーがもやっとした感じで自分の中に残ってしまうことがある。

その行き場のないエネルギーが自分を不安定にさせる。

自分のやりたいことがどこかにあるのではないかと、可能性を探そうともがき出す。

もっと自分の力を有効活用する方法があるのではないかと妄想を広げる。

そしてもがくだけで実際にエネルギーは使われないので不安定になるのである。

たまに勢いに任せて何かを始めてみたりするのだが、途中で「何かが違う」ということに気づいて止めるということを繰り返す。

ある意味、私の人生というのはその繰り返しである。

 

今は自分の余暇と能力の多くを妻に費やしている。

おかげでエネルギーが余ることはなく、100%使用されることで出力が安定している。

例えば、私の仕事の定時は9時〜17時で、妻の仕事の定時は10時〜19時である。

今住んでいるところから職場まで、私は片道1時間半、妻は30分かかる。

私は出張が多いのだが、そうでない出社するときは毎朝5時ごろに起きて2人分の弁当を作る。

そして6時半くらいの電車に乗り、8時くらいには出社する。

帰りも通勤時間は私の方が3倍くらい長いが、妻の方が定時が遅いので、私が早く帰ることが多い。

定時近くで上がれれば19時くらいには最寄駅に着くので、買い物をして帰って夕食の準備をする。

20時ころに妻が帰ってきて、テレビを見ながら夕食をとり、食べ終わったら洗い物をして、少しだらっとして風呂にでも入れば1日が終わる。

自分1人なら料理はしないし、ゆえに後片付けの時間もまったくいらない。

つまり概ね私が今まで費消していた時間は妻に注がれていることになる。

 

家事炊事の多くを担うことは楽なことではないが、そうすることで自分のエネルギーがフル回転して、自分自身の精神状態が安定することにつながっている。

エネルギー過多が私がときどき暴走する原因だとはわかっていたつもりだが、こうやって実際にエネルギーが使われることで安定するということがわかったのは、新しい発見と言っていいかもしれない。

ただし能力をフル回転させて安定するのはいいが、金銭だけは不足感があり不安定である。

共働きとはいえ、妻の収入は安い私の給料の半分以下である。

妻は鬱病を患っていたことがあるし、もともと能力的なキャパシティが小さいので、比較的負荷の少ない仕事しかできない。

必然的に収入は少なくなる。

まあ、ないよりはいいのだが、私の収入自体が多くはないので家計はかなり逼迫する。

自他共に認める「倹約家」でかなり節約しているのだが、それでもだというのが致命的だなと思う。

やはり先立つものがないと、どうにもならないものである。

家計が安定しないと結局精神も安定しないのだろうから、「世の中、愛より金」というのは一面の真理なのだろう。