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異呆人

毒にも薬にもならない呟き

自然と人工

「自然」と「人工」を対比させる考え方は人間の思い上がりだなと思う。

「自然」に対して「人間」あるいは人の手による「人工」を置くことは、人間が自然の一部であることを無視した考え方だと感じる。

人間を自然の一部とみなすなら、人工物は「自然の営為の結果生み出されたもの」となるはずである。

鳥の巣は自然の一部とみなせるのに、人間の家は自然でないというのは、「人間様」という驕りが根底に流れているように思う。

 

「自然」が「自然」を駆逐する行為は、「自然界」ではよくあることである。

所詮この世は弱肉強食。

弱いものは強いものに駆逐される。

また、環境に適応できないものは姿を消す。

そうして淘汰されてきたのが現在の世界である。

それは本来、何ら責められるものではない。

まさに「自然のまま」放っておいたらそうなるのである。
つまり人間が野放図に土地の開拓などを押し進め、その結果「自然環境」が致命的なまでに破壊されることになっても、それはある意味では自然なことだと言える。
 
だから環境保護などは必要ないとか、そういうことを言うつもりはない。
最近はもうサスティナブルという考え方が一般的になってきているが、つまり人類が少しでも長く存続していくためには人間以外の自然との共存が欠かせないのである。
腹八分目の方が長生きできるのと同じようなものかもしれない。
過ぎたるは及ばざるが如し。
ほどほどにして他の生物の顔を立てるくらいがちょうどいいのだろう。
そうやって控えることができるのは、人間が人間たる所以、理性があるからである。
つまり「やり過ぎた」と思ったときに控える流れまで含めて、自然の一部としての人間のありのままの行為であると言える。
 
ちなみに、私はあまり環境保護には熱心ではない。
貧乏性なので、「もったいない」という思考からリユースするためのゴミの分別などには積極的だが、それ以外のことには何ら取り組んでいない。
理由は単純で、そうやって守る地球環境もいずれは存在しなくなるからである。

utyuu-tanosimu.net

このことを知ったのはまだ10代の頃だったと思うが、随分と衝撃を受けた。

地球に寿命がある(その前に太陽が寿命を迎える)ということは、人類もそのときには滅亡するということである。

どれだけせっせと子孫を繁栄させても、歴史に名を残したとしても、もっともっと長いスパンで考えれば、それらはまったく意味のないことなのである。

箱庭で遊んでいるようなものである。

そうであるなら自分は何に価値を見出し、何をなすべきなのだろうかと、若い頃は真剣に考えたものだった。

もちろん、そんな何十億年先の未来より、心配しなければならないことは目の前にたくさんある。

だが、先のゴールとしてどこを見据えるのか、ということは少しくらい考えておいていいかもしれない。

「自然環境」を守るということが何のために必要なのか、いずれなくなるものを丁寧にメンテナンスする意味は何か。

これは身体の健康と同じようなものかもしれない。

 

もちろんSF的に地球を脱出して、人類は別天地で繁栄を続けるという可能性もある。

もうそうなれば、何が自然で何が人工かなんて、実にナンセンスな議論になるのだろう。

そして自然はそのとき、死語というか、単に過去に存在したものとして扱われるだろう。

地球というものが歴史の中だけで語られる日も来るかもしれない。

ただし、もっとマクロな視点で考えれば、宇宙そのものが終焉を迎える可能性もある。

 

詳しくは、「宇宙の終焉」でググれば、ウィキペディア先生が教えてくれる。

まぁここまで先の未来にならずとも、将来的に技術が進歩すれば、環境問題なんて技術でまるまる解決してしまうかもしれない。

そうなると、そんな形で守られた「自然」をこれまでと同じ「自然」として考えていいのかという疑問も起こる。

まぁ結局、あれこれ考え過ぎても詮無いという話である。