異呆人

毒にも薬にもならない呟き

宗教と科学

死ぬということ - 異呆人

宗教の有用性 - 異呆人

死後の世界という発想が嫌いだ。

輪廻転生も同じくである。

死してなお自分の意識があること、こんな風にくだらないことを考え続けなければならないことは拷問ではないだろうか。

死後の世界という発想は、人が死の恐怖を克服するために生まれたのだろうが、私にとっては生き続けることの方が恐怖である。

何もないことこそ安寧である。

いや、「無」には存在も形態も概念もないので、つまり言葉で表現した瞬間に矛盾が生まれるのだが。

とにかく、私はそんな理由で、宗教やスピリチュアルなものを受け入れない。

 

別に宗教やスピリチュアル的なものが悪いわけではない。

宗教には宗教にしかできないことがある。

それはわからないこと、割り切れないことに理由をつけることである。

世の中には「意味不明」や「理不尽」が溢れている。

人はそういうものに接すると、不安や恐怖を感じる。

その不安や恐怖を取り除くのが宗教の機能である。

理由をつけて、理解できるようにしてあげるのだ。

これが必要なのは、人間が人間たる所以だと言える。

事物に過剰なまでに因果関係を見出だそうとする習性。

だからこそ、人類の文明は「進歩」してきたと言えるのだが。

 

必要な人には必要なのだから、宗教的なものを過剰に否定する必要はないと思う。

死後の世界や神の存在を科学をもって否定しようとする人がいるが、非常にナンセンスな行為である。

「神の存在を否定することは、ミッキーマウスみたいなネズミはいない、と主張することと同じくらい馬鹿げている」というような主張をネットで見たことがあり、非常に面白いと思ったのだが、要はそういうことである。

もう少し言うと、科学というのは「法則性」と「再現性」をもって現実を説明するものであり、コンテクストは違えどやっていることは宗教と同じである。

科学をもって宗教を否定する行為は、ケーキにカレーをかけるようなものである。

 

だからといって、宗教のコンテクストがきちんと現実を説明できているとは思わない。

いくら科学をもって否定できないといえ、頭がお花畑にならない限り、宗教に心底賛同することはできない。

目を背けないで現実を見てほしいと思う。

マインドを変えて気持ちを楽にすることはできても、現実そのものを変えることはできない。

起こることは、起こるべくして起こる。

それはハッピーな因果に彩られたものではなく、もっとシビアで時に打算的に感じられるようなものである。

真に生きるということは、覚悟を持って岩を齧るような行為である。

 

最近、最寄り駅の入口の広場で、仏教徒キリスト教徒が競い合うようにしてビラを配っている。

彼らは他人の幸せや世界平和を願えるのかもしれないが、まず何より彼ら自身が過不足なく暮らせているだろうかと、内心で余計なお世話を焼いてしまう。