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異呆人

毒にも薬にもならない呟き

優しさと合理性

最近、結婚式の打ち合わせで妻と行動を共にしていると、「とても優しい(優しそうな)彼ですね」と言われることがある。

結婚式のあれこれに関して、妻の好きなようにさせていることについて言われるのであれば、それは私が考えるのがめんどくさいというのが半分、「アレが良かった」と後から言われるのが嫌なので禍根を残さないためというのがもう半分である。

決して私が優しいからではない。

雰囲気について言われるのであれば、それは仕事柄、私にはオートスマイル機能がついているので、薄っすら笑っているような表情を取ってしまうからである。

(ちなみに微笑はオートだが、笑うのは苦手である)

これはただの印象操作であり、私が優しいかどうかとは関係ない。

自己評価をするなら、私は決して優しくないというのが本音である。

 

会社でも「優しい」と言われることがある。

これは私が他人の仕事を手伝ったり、周囲の動きを見て最適な行動を決定するからである。

他人の仕事を手伝うのは、自分の余っている時間がもったいないからであり、またそうやって時間を有効活用して仕事をすることが会社の業績向上につながり、ひいては自分の待遇改善につながると思っているからである。

決して私が優しいからではない。

周囲の動きを見て最適な行動を取るのも、「優しい」とか「協調性がある」ということではなく、「無駄な動きをしない」という合理的な発想からである。

サッカーで言えば、ボールの出しどころに困るチームメイトがいたとして、パスをフリーで受けてあげられる位置にポジショニングするのは「優しい」からではない。

それは自分の得点のため、あるいは得点してチームを勝たせるための行為である。

合理的な行動や自身の戦略がたまたま「優しい」に繋がっているだけである。

 

しかしこうして「優しい」人だと認識されていると、良いことが結構ある。

例えば、自分が困っていると助けてくれる人が多い。

私は人に頼ることが好きでないので自ら助けを求めることは少ないが、仕事が大変そうだったり、体調が悪そうにしていると、周りから非常に「優しく」される。

また自分が仕事やプライベートで何か新しい試みをするとき、周りが協力してくれたりする。

「普段、お世話になっているから」という感覚だろうか。

こうして為すべきことがスムーズに進むと、ストレスフリーでもある。

端的に言うと、生きやすい。

 

つまり周りに「優しく」することは、非常に合理的な行動だと言える。

「情けは人の為ならず」というやつかもしれない。

もちろん、そのすべてが自分に還元されるわけではないし、むしろテイクよりギブの方が多いことがほとんどなのだが、そもそも私の「優しさ」は合理的な戦略からなされるものなので、「自分が尽くした分だけ、周りから思われていない!」などと精神状態を悪くすることはない。

単に、合理的な行動がさらに合理性を生むというスパイラルが発生する。

別に「だから他人に優しくしろ」などと言うつもりはない。

ただそんな風に発想を変えてみるだけで、つまらないモヤモヤから解放されることもあるのではないかと思う。

自分のために他人に優しくするなんて偽善だと思う人もいるかもしれないが、そもそも人間の行動なんてすべてが自己中心的でエゴイスティックなものである。

だったらせめて自分のエゴが、誰かのためになっている方がいいのではないだろうか。

 

しかし私が妻に「優しく」することで、妻からより愛されるようになっていることを、私は「正のスパイラルが発生している」と思えないでいる。

個人的には、もうちょっとさっぱりしている愛でいい。

「優しさ」も過剰になれば、ただ鬱陶しいだけということなのかもしれない。