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異呆人

毒にも薬にもならない呟き

親離れ、子離れ

先日、妻と外食した。

妻が好きな、ちょっとオシャレな丼物屋である。

正午に予定があったので、11時の開店と同時に店に入った。

平日だったこともあり、客も少なかったのだが、ちょうどすぐ後に入ってきたご婦人2人組がうるさくて難儀した。

片方の女性が一方的に喋り倒していた。

見える位置ではなかったので、相手の女性がどんな顔で話を聞いていたのか定かではないが、店中に響き渡る会話からうんざりしているであろう様子は伺い知れる。

そういえば医療関係の仕事をしている友人が、「女性は歳をとるとホルモンバランスの関係から羞恥心がなくなる」と話していたなと思い出した。

真実かどうか知らないが、それが真実かもしれないと思わせる実例が、世の中にはたくさんある。

 

何をそんな大声で話していたのかというと、彼女の息子が今度就職して会社の寮に入るという話だった。

その寮がどんな寮で、息子はどんな人間で、だから心配だとか何だとか、そんな話である。

彼女の息子は一人っ子で、甘やかされて育ったため、どうやら一人暮らし(といっても寮だが)が寂しいらしい。

息子は大学入学時にも新しい環境に馴染むのに苦労して体調を崩したくらいのナイーブな人間で、今回親元を離れることについては涙して悲しんでいるらしい。

引越しの時期が近付くのに荷物の整理も進まないくらい凹んでいるらしいのだが、「家で両親と会話をする時間がなくなるのが悲しい」と言われると、突き放すことはできないと悩んでいるそうである。

その息子さんにとって、友人以上に両親が「何でも話せる間柄」なのだそうだ。

話の内容に対するツッコミはひとまず置いておいて、「あんたそんな話よく友人に対して大声でするなぁ」と思ってしまう。

 

肝心の話の中身であるが、息子さんの豆腐メンタルには呆れるを通り越して哀れになる。

こんな母親だから、そんな息子に育つのだろうと考えると、親の責任の重大さというのを感じさせられる。

子は親を選べない。

そして親の子育てや教育というのは、特に幼少時においては絶対である。

長じる過程で自分なりに社会を知っていくものではあるが、不幸にして家庭という檻の中から抜け出る機会を失ってしまうと、ガラパゴス化した人間が出来上がってしまう。

そしてそれは本人の努力云々というよりは、環境のもたらす影響が大きい。

なぜなら「そこから抜け出なくてはならない」という発想を得られるかどうか自体が、親の教育による部分が大きいからである。

だから可哀想だと思うのだ。

子の成長の機会を奪っているのは親だと言える。

 

自分もそのうち人の親になるかもしれないと思うと、他山の石としなければならない。

私自身、自分の親の教育に異論があったので尚更である。

しかし自分の考える「良い教育・子育て」が、本当に本人のためになるかどうかはわからない。

それは私にとって「正しい」ものではあるが、それをもって教育や子育てにあたることは、「ポリシーがある」ということと「押し付けである」ということの両面を常に備えている。

そう考えると本当に「良い教育・子育て」というのは、子ども自身が考え、学び、成長する機会を与えるということなのだろう。

極端で不適切な例えになるだろうが、ドッグランで犬を遊ばせるのと同じである。

放し飼いにするのではない。

あくまでもルールの中で自由にさせるのである。

ドッグランのスペースをどれだけ広くとれるか、中で遊べるような遊具をどれだけ設置できるかが、その教育の幅とも言える。

 

そして責任能力がある年齢になれば、きっぱりリードを離す必要がある。

アドバイスはしてあげてもいいだろうが、意思決定に積極的に関与するのは間違いである。

たとえ子どもの選んだ道が失敗に終わろうとも、失敗から学ぶことは多いのである。

そして失敗から学ぶことで人は成長する。

つまり親が意思決定に深く関与し、失敗しないように導いてしまうことは、子どもの成長を妨げるということにつながる。

ただそもそも「自分で決める」ということになかなか至らないのが、先の話に出てきたような息子なのだろう。

ご婦人は「息子は友人作りが上手くない」とか、そんな話もしていたが、それは四六時中ケージで犬を飼うように子育てをしてきただろうご婦人に非があるのである。

 

もちろん、子どもの世界も良いことばかりではない。

イジメやら何やら、ある意味では大人の世界以上に純粋な弱肉強食の世界でもある。

しかしそこから無理に隔離してしまうことは、最終的に社会への不適合として代償を終生払うことにつながると思う。

正解と不正解の難しい問題だからこそ、見守りながらも手を出さない勇気が必要なのだろう。