異呆人

毒にも薬にもならない呟き

人を好きになる方法

はてブスマホで見ると、「注目記事」というコーナーが下の方に出てくる。

通算のPVなのだか、近〜ヶ月のPVなのだか、何で判定されているのかはわからない。

私のブログのPVは、ほとんど過去に書いたオセロニアの記事である。

もう1年以上前の記事もあるのだが、今でもアクセス数が落ちないことが不思議である。

さておき、久しぶりにこの「注目記事」の欄に目を留めると、オセロニアの記事に混じって下の記事がランクインしていた。

恋人がほしいという感覚がわからない - 異呆人

誰がどんな方法でこんなネットの辺境のこの記事に行き当たるのか知らないが、その他の雑記の中では読まれている方らしい。

恋愛できなくて困っている人、あるいはそんな自分に不安を感じる人がいるのだろうか。

もしくは、恋愛が賛美される世の風潮に疑義を呈したい人がいるのかもしれない。

 

私は恋愛できなかったり、恋人が欲しいと思えない人というのは、自分を極端なまでに客観視できる人だと思う。

逆さにして言えば、恋に必要なものは古来から言われる通りに「盲目」なのである。

だから自分の感情の揺れを客観的に見つめられる人というのは、恋愛しにくいのだと思う。

またそんな人は、相手を客観的に眺められる人でもある。

相手の良いところと悪いところをつぶさに観察できるような人は、相手と良い友人関係を気づいたりすることはできるだろうが(むしろ人との距離の取り方は上手かもしれないが)、こと恋愛に関して言えば、「できない」タイプの人だろう。

「できない」ことが悪いと言っているわけではない。

する必要もない。

ただ「恋愛できなくても結婚はしたい」という人はいるかもしれない。

私はそういうタイプの人間である。

そして結婚し、生活を共にするなら、相手に恋はしなくてもいいが、相手を好きになることは必要だと思う。

 

人を好きになるのに必要なことは2つあると思う。

1つは相手の良いところを見つけること、もう1つは相手の嫌なところを受け入れることである。

ちなみに「好きになる」が「恋をする」に変化する際は、後者が「嫌なところが目に入らない」に変わっていると思われる。

すごくシンプルなことではある。

だからこそ簡単に交尾をするまでに至り、人類は数を増やしてこれたとも言える。

だが自分や相手を客観視できる人というのは、このシンプルなことを難しく捉えるきらいがある。

「自分が本当に相手のことを好きなのか?」とか、哲学的に自問を始めたりする。

好意というものが非常に主観的なものである以上、それを客観的に考察することはナンセンスである。

「真実の愛とは何か?」みたいなことを考える必要はない。

結婚や交際を望むだけなら、相手が「間違いなく世界で一番好きな人」である必要はない。

数多いる「好きになれる人」の中で、たまたま縁があった人であればいいのである。


相手の良いところというのは探せば何とか見つかるものである。

問題は嫌なところを受け入れられるかどうかだろう。

「受け入れる」ということは「目をつぶる」ということとは違う。

相手の嫌なところを理解しつつ、どうやってその嫌なところと付き合うかを考えることである。

恋は目をつぶらないとできないかもしれないが、それでDVやストーカー気質や借金癖に見ないふりをしたのであれば、末路が悲惨なことは言うまでもない。

嫌なところを受け入れられるかが、いわゆる相性なのだとも思う。

例えば、私の妻は凄まじく優柔不断である。

石橋どころか鉄の橋でも、散々叩いてから渡る。

私はせっかちなので相性が悪そうだが、裏を返せば決断力のある私が上手くリードしてあげれば良いわけである。

そういうことができるかどうか、それは相手の良いところをどれだけ認められるかでもある。

良いところと嫌なところの自分の中での価値のバランスは、合理的に考えればいい。


客観的な視点の強い人、悪く言えば冷めた人でも、そうやってシンプルに考えて相手の良いところに目を向けられれば、相手を好きになることはできると思う。

あとは連れ添えば情が湧くものである。

そんな状態を悪く言う人もいるが、情が湧くくらい付き合えた時点で、人間関係というのは完成されているのである。

ただし繰り返しになるが、恋愛も結婚もしなければならないものではない。

独り身の良さと家庭を持つ良さは、どちらが良いでも悪いでもなく、トレードオフの関係である。

実際に結婚してみて、つくづくそう思う。