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異呆人

毒にも薬にもならない呟き

命の選別の是非

出生前診断というのがある。

方法やどんな疾病・障碍を診断するのかは様々だが、生まれる前にそういったものが子供に発生するかを、ある程度の確かさを持って知ることができる。

私も子供を欲しいと思っているので考えさせられることではある。

私は30代前半で妻は20代後半なので、出産を考えた場合に高齢というわけではないが、特段若いというわけでもない。

そしてそういうリスクは、大小あれど誰にでもあるものである。

何かあったときの覚悟は、いつでもしておかねばならないだろう。

 

子どもに病気や障碍のリスクがある可能性が高かったとき、私は産まないということも一つの選択肢だと思う。

子どもに病気や障碍があったときにかかる労力や金銭を考えると、それでも産むということは非合理的である。

少なくとも、今の私にそれを引き受ける余裕はない。

冷酷な言い方かもしれないが、私はそう割り切っている。

実際に産むか産まないか、そんな選択を迫られるようなときが来れば、どうするかはわからない。

産むのは私ではなく妻なので、妻の意向は一番に尊重するし、もしかしたら私自身が非合理的だけれども産んで欲しいと思うかもしれない。

ただ最初から排除すべき選択肢ではないと思うし、選んだことを批難される選択肢でもないと思う。

 

問題は2点ある。

1つは命の選別の是非という生命倫理的な問題である。

これに関して、私は生命倫理というのは概ね感情論だと思っている。

クローンだろうが、デザインベイビーだろうが、出生前診断だろうが、中絶だろうが、やりたければやればいいと思う。

生まれてくる子ども、あるいは生まれなかった子どもに対する人権の問題はあるが、それはそういった生命科学の手法の是非とは議論の焦点が異なる。

生まれる前のどの時点から人間として認め、人権を保証するのか、生まれてきた子どもの人権をどうやって保証するのかは、概ね制度的な問題でどうにでもなる話である。

生命科学に対する反発や拒否感は、「よくわからないから怖い」という漠然とした不安からくるのではないだろうか。

 

そういった人工的なものが関わる出生に対して、「自然でない」という考え方もあるかもしれない。

しかし人間は自然の一部であるから、人間の営為もすべからく「自然」である。

「自然」と「人工」を対比させる考え方は、人間を特別な存在と見なす思い上がりである。

命をコントロールすることは、人間が獲得していった能力のもたらす必然だと思う。

だから出生前診断を利用して自分たちに都合の良い子どもを選ぶことは、理に適った「自然」なことであるし、倫理的な問題はないと思う。

 

もう1つの問題は、先天性疾患や先天性障碍を抱えながら生きる人の人権の問題である。

出生前診断により先天性疾患や先天性障碍のリスクがある子どもを選別することは、現にそれらを抱えて生きる人たちに、自分たちが「不要な存在」、「不都合な存在」だと受け取られかねない。

こちらの方が難しい問題である。

感情の処理などはどこまでいってもプライベートな問題なのだから、他人がどうこうできるものでもない。

あえて発想を変えるなら、病気や障碍の負の価値と、その人そのものの価値を分けて考えるしかない。

病気や障碍がない方が良いのは間違いない。

あって良かったなどというのは、過剰にポジティブなただの詭弁である。

しかし病気や障碍があるなら生まれて来ない方が良かったかどうかは、生きるその人が決めることである。

生まれた以上は自分の価値は自分で作らなければならない。

これは病気や障碍がある人に限らない話だが。

現実的なコストを考える産む側の判断と、現に生きる人の考える判断、その人の価値は違う。

「生まれて来ない方が良かった」とは言えないが、「正常に生まれた方が良かった」というだけである。

 

そのうち容姿や能力を希望通りに遺伝子操作したデザインベイビーが巷に溢れるかもしれない。

もはやSFの世界だが、近い将来に技術的には可能になるのだろう。

そうしたら美男美女ばかりで、逆に「美男美女」という概念が消えるかもしれない。

人間の能力に差がなくなり平等が実現される代わりに、差がなくなることでスポーツやゲームは成立しなくなるかもしれない。

しかし多様性が失われることは生物にとってはマイナスだし、そういう合理的な発想から一定割合は「不完全人間」を産むことが義務付けられたりするかもしれない。

まぁあれこれ考えたってなるようにしかならないものである。

肩肘張って思い詰めて考えず、そのとき自分が最善だと思う方を選んでいけばいいのである。