読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

異呆人

毒にも薬にもならない呟き

死刑制度の是非 〜人を裁くことの難しさ〜

痛ましい殺人事件のニュースが後を絶たない。

世の中で起きるそれら一つ一つをマスメディアが拾っていたら、2時間くらいの報道番組などそれだけで終わってしまうだろうと思う。

生物というのは人に限らず、極めてエゴイスティックなものである。

自分の都合を優先する。

自分の都合の上に邪魔な他人の存在があれば排除しようとする。

一方的に排除されてしまうこともあれば、エゴとエゴがぶつかり合って争いが起きることもある。

いずれにせよ、その排除の究極の方法が殺人であり、だから殺人はこれまでもこれからもなくならない。

人間は理性のある動物なので、無用な殺生を控えて社会を形成してきた。

だからこれだけ地球上にのさばっているわけだが、それと動物的な本能の有無とは別の話である。

エゴのない人間などいない。

それをコントロールできるかできないか、それだけである。

 

殺人事件のニュースがあると、被害者遺族が取り上げられる。

ごく親しい人を失う悲しみは言語に絶するだろうし、殺されたとなれば恨み辛みも言語に絶するものだろう。

そして当然のように死刑を求める人が多い。

目には目を、歯には歯を、死には死を、だろうか。

しかし私は死刑制度には反対である。

なぜなら、死ぬより生きている方がずっと辛いと思うからである。

大量殺人を犯した悪逆の徒を、死んで楽にさせるなんて許せない。

恩赦なしで終身刑務所で服役させた方がまだいい。

殺してしまうのではなく、一生の自由や娯楽を奪って生きさせた方が、よほど苦しい人生ではなかろうか。

 

そもそも殺人犯に死刑を求めることは、その殺人犯と同じことをしていることにならないだろうか。

殺人教唆と同じようなものである。

手段が違うだけで、人一人を殺すことには違いない。

死刑を求めた被害者遺族、検察官、裁判官、場合によっては裁判員など、皆で寄って集って人殺しをしているとも言える。

手を下さなければいいわけではない。

殺人犯だから殺してもいいと言うのなら、そうやって司法制度を利用して人を殺す人間も、殺されていい対象ということになる。

詭弁ではない。

死刑に限らず、人が人を裁くという仕組みの難しさがそこにある。

いずれ殺したいから殺すのである。

死刑制度を利用するということは、明確な殺意と、殺人犯と同じ程度の人間に堕するという覚悟を持ってすべきだということである。

それでも殺したいというなら止める術も必要もない。

本当にその覚悟があるのなら、ナイフでも持参して殺人犯に強襲をかけられるだろうから。

 

もちろん、そんな殺意を持たせる原因を作った人間が一番悪いのは間違いない。

しかし、何も望んでそんな人間と同レベルのことをする必要はないと思う。

だから冷静に考えるなら、死刑制度そのものをなくしてしまえばいい。

それでも殺人犯を殺したいなら、ナイフでも拳銃でも使えばいいし、それに伴う責任を引き受ければいい。

制度があるから安易に利用するのである。

生きる辛さを知らない人間の発想だとも思う。