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異呆人

毒にも薬にもならない呟き

「昔は良かった」はなぜ気持ち良いのか?

「昔は良かった」。

古今東西どこでも聞かれるセリフである。

本当に昔の方が良いことは稀だろう。

人類は進歩している。

急速に進歩する分野もあれば少しずつしか良くならない部分もあるだろうが、悪くなるということはほとんどない。

古今無双の天才の所業なれば別たが、普通は今ある「良いもの」を参考にして、より「良いもの」が目指される。

そして人間のその試みは概ね成功してきた。

だから昔の方が良く思えるものがあったとすれば、それは単なる思い込みか、トレンドや価値観の違いである。

本当に昔の方が良かったと思う人が多ければ、社会は自然とそちらに回帰するだろう。

ただし人間においてはこの限りではなく、若い方が身体的なスペックは高いし、知識や経験などの上積みを差し引いても、やはり昔の方が良かったということはあり得る。


たとえそれが思い込みだったとしても、人が「昔は良かった」と言いたがるのは、一種の自己肯定によるものだと思う。

自分が生きてきた時代、そのとき慣れ親しんだ事物、それらと合わせて「あの頃の自分は良かった」と思いたいのである。

でなければ、過去の事物は「懐かしい」という感慨で振り返られることこそあれ、「(今より)良かった」とはならないだろう。

ある意味では自慰行為のようなものである。

非生産的だが気持ち良い。

わかっていても、やめられない。


これは「昔は良かった」が悪いと言っているのではない。

人にはそうやって、心のバランスを取ることが必要なときがある。

誰しも常に「今が一番良い!」と思えるわけではない。

うまくいくときもあれば、うまくいかないときもある。

いや、うまくいかないと感じるときの方が多いだろう。

もし今がベストだと常に思える右肩上がりの人生を送ってきたと言える人がいるなら、その人は余程ポジティブに思い込める人か、相当な強運の持ち主である。

だからたまには自分で自分を慰めることも必要なのである。

余計なものを削ぎ落とされ、美化された思い出と向き合うことは、今の自分に自信を取り戻させてくれることに繋がる。

過去は変えられないから、アンティークの希少価値のようなもので余計に美しく思えるから、なおさら効果抜群である。


しかし過去は過去で、どれだけ振り返っても目の前に顕現しない。

思い出は、撫でていればアラジンが飛び出す魔法のランプではない。

竿を撫でるのと同じようなものだ。

出てくるのは白い液体ではなく溜め息である。

「自分はまだやれる!」と思うのか「今の自分なりに頑張ろう」と思うのかは人それぞれだが、最終的に必要なことは前を向いて現実と向き合うことである。

今、しっかり生きることである。


良かったとき、あるいは昔の事物を懐かしんでは、過剰なまでに現在を憂う人は、目の前の現実に対して何ができているのだろうかと思う。

別に現在を変えるために行動しようなどと言うつもりはないが、せめて現在を受け入れることは必要だろう。

受け止めて、受け入れて、一呼吸置いてから見える道もある。

ボールが来るときにはすでにパスコースが見えていて、ダイレクトで切り返せる名手なら話は別だが、普通の人はまずトラップして顔を上げてからコースを探せばいい。

プレッシャーをかけてくるディフェンスはいるかもしれないが、ボールを取られたって死ねわけではない。

チャンスが来たら、攻め直せばいいだけである。


私も「昔は良かった」と思うことは、しばしばある。

それはもう手に入らないが故の貴重なもので、ときどき宝石箱から取り出して、光に透かして眺めるダイヤモンドのようなものである。

実際、私は過去の思い出の品をひとところに集めている。

特別なとき以外は触れることはないが。

絵画でも虫干しが必要なのだから、思い出もたまには取り出して日光に曝すのもいいかもしれない。

結婚式の準備で昔の写真などを引っ張り出していて、そう思った。