異呆人

毒にも薬にもならない呟き

スポーツにおける公平性

スポーツが好きだ。

見るのもプレーするのも好きである。

得意不得意は別として、大抵のスポーツはプレーすることを楽しめる。

やりたくないと思うのは、ことさら苦手な水泳くらいなものである。

知能系のゲームも好きだ。

実際にルールを把握しているもの、プレーできるものは多くないが、将棋やオセロや麻雀は嗜む程度に楽しめる。

要は勝負事が好きなのである。

これは理屈ではない。

闘争心とか攻撃性とか、そういった本能に近い衝動を満たしてくれるような気がする。

私は自分自身を、見た目や物腰以上に攻撃的な人間だと評価している。

勝てば嬉しいし、負ければ悔しい。

それは人間に本来的に備わっている原始的な感覚で、きっと生きるために必要な感覚だったのだろう。

 

いくら闘争心や攻撃性が人間に本来的に備わっているからといって、他人を無闇に攻撃することは理に適わない。

人間には理性があり、理性的に考えれば同族を攻撃することは非合理である。

種族としての繁栄を妨げることになるし、無用な争いは互いに消耗するだけである。

そうとはわかっていても抑えられないから、人は戦争を続けるのだろう。

人間というグループの内側にさらに小さなグループを作って、身内と外敵をわけてまで争う。

そして公にそんな争いができない社会で生きるとなれば、エネルギーのやり場がなくなる。

スポーツや知的ゲームというのは、そんなエネルギーの捌け口として成立したのだろう。

でなければ、こんな非生産的な行為が今日まで続くことはなかったと思う。

 

だからスポーツにしろ知的ゲームにしろ、勝ち負けをつけることに意味がある。

「オリンピックは参加することに意義がある」などと言われたりするが、それは一面的には正しいが、概ねただの綺麗事である。

勝たなければ意味がないとまでは言わないが、勝つことを目指さないのであれば意味がない。

それがスポーツというものである。

別に皆がスポーツをプレーするのを好きになる必要はない。

そういった形でのカタルシスを必要とする人だけが楽しめばいい。

もしくは勝ち負けのつかない形で楽しめばいい。

ランニングや水泳やスキーなら、ただプレーすることもできる。

ただしそれはスポーツというより、ただ身体を動かす「運動」だと思うが。

 

スポーツが勝負事だとして、問題は何をもって勝ち負けをつけるか、どのように公平性を確保するか、ということである。

スポーツでは同じ土俵に立つためにルールが設けられる。

だがスポーツとしてのルールを守っていれば公平かというと、そうとは言いきれない。

ドーピングの問題、器具の問題などがある。

もっと言えば、人種や成育環境によって身体能力に差がある。

よほどの幸運が重ならない限り、マラソンで日本人選手がケニア人選手に勝つことはないだろう。

いやもし「生まれもったものは変えられないのでOK」ということにするなら、例えば高地トレーニングなどはドーピングに類するものにはならないだろうか。

「高地トレーニングはその気になれば誰でも取り組める」と言われるかもしれないが、薬物によるドーピングだって、その気になれば誰でも取り組める。

身体への悪影響を問題にするなら、高地トレーニングだって悪影響がないとは言い切れない。

というか、身体的負荷の高いスポーツは、概ね健康にはよろしくない。

 

だからスポーツにおける公平性というのは、「出来るだけたくさんの人が妥協できる点」にまとめられることになる。

ときには数の暴力が発生するかもしれないし、声の大きな人が得をするかもしれない。

これは別にスポーツに限らない話であり、社会全体のルールに通じるところがある。

つまりある程度の不公平は「仕方ない」と見なされてしまうということである。

完全なる公平というのは確保しようがない。

なぜなら、もともと世の中というのは不公平にできているからである。

 

だから個人的には「パラリンピックってどうなのかな」と思う。

身体の障碍があるという時点で、すでに不公平に曝されている。

また障碍の程度も様々である。

それをハンディキャップをつけてまで「勝負事」というステージに引きずり出すことに、果たしてどれほどの意味があるのだろうか。

ただ身体を動かす運動としてのスポーツではなく、順位を競い合う競技にする意味はなんだろうか。

 

私は「パラリンピック」という概念自体がなくなればいいのだと思う。

つまりパラリンピック種目を健常者も参加できるスポーツとして再整備し、普通にオリンピック種目にすればいいのである。

例えば、ブラインドサッカーや車イステニスなら健常者でもできる。

同じスポーツの同じルールの中で、障碍者や健常者の別なく戦えばいい。

遊びでやるならともかく、真剣勝負にハンディキャップという発想がナンセンスである。

ハンディキャップなくプレーできるようにルール整備すればいい。

それが無理なら、初めから勝負事にしなければいいのである。

 

そういう視点で考えれば、スポーツというのは学校教育、体育にはあまり向いていないのかもしれない。

勝負事の土俵に誰彼構わず引き上げてしまえば、苦手な人間はスポーツ嫌いにもなるだろう。

だがゲーム性を完全に排除してしまえば、体育など凄まじく退屈なものになってしまうだろう。

ゲーム性のある運動。

それが体育の狙うニッチなスペースなのだろうか。

難しく考え出すと、キリがない問題である気もする。