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異呆人

毒にも薬にもならない呟き

絶望のススメ

随想

絶望と失望は違う。

辞書的な意味とはまったく異なるが、私は個人的にその2つを勝手に定義している。

失望とは、希望が失われることである。

望んでいたことが叶わなくなる。

夢への道が絶たれる。

大切なものを失う。

何か存在するポジティブな事物、希望を失うことが失望である。

希望があるから失望する。

対して絶望とは、何も望まなくなることである。

希望が初めから存在しない状態である。

夢や希望がない、どうなりたいという望みもない、未来に対する期待が持てない状態である。

 

例えば、プロスポーツ選手が事故により競技を続けられなくなったとして、その事実に打ちひしがれ、落胆することは失望である。

あるいは最愛の人を失い、悲嘆に暮れることも失望である。

一時の感情で「私にはもう何もない」と思うことはあるかもしれないが、それはまだ希望が失われた状態、失望である。

その失望状態から立ち直り、そこで新たな希望を見つけられたなら、それはそれである。

その失望状態から立ち直り、しかし将来に対して何ら希望を持てなくなったなら絶望したと言える。

失望は希望を失うことなので、感情の沈み込みを伴う。

人によっては大きなダメージを受けることもあるだろう。

しかし絶望というのは、いわばその低下した人生に対するポジティブなモチベーションが、そのまま低位安定することであり、落ち着いた凪いだ状態だと言える。

私は絶望することが、人にとって良い状態なのではないかと思うのである。

 

「将来に対して希望が持てない」、「生きている意味が感じられない」というのは、私からすれば当たり前の話である。

人はいずれ死ぬ。

将来に対する希望というのは、そのまま先へ先へと突き進めば最後は死ぬことに収束する。

そこから先はない。

0になって終いである。

生きている意味など、もちろんない。

あるのはただ生まれ落ちた身体であり、それを持って命ある限り続く人生である。

それをどう生きるかは個人の自由だし、辛い人生や退屈な人生よりは楽しい人生の方が良いのだろうが、結局希望なんてものは一種のまやかしや錯覚のようなもので、本質だけを直視するならどんな人生も等価である。

 

だから絶望して生きるということは、無理せずにあるがままに生きるということでもある。

偉くなろうが有名になろうが、それはほんの少し自尊心を満たしてくれるだけで、どこの誰にとっても大して関係ない話である。

心配せずとも、他人のことなど自分が思うほど周りは気にしていない。

金があれば享楽的な人生が送れるだろうし、それはきっと貧乏な人生よりは素晴らしいだろうが、金は誰の元にも平等にやってくるものではないし、金を稼ぐ能力にも個人差がある。

自分にないものは手に入らないし、無理に求めてもそれが祟れば破綻する。

人間は不平等にできているし、人生の機会も不平等である。

分相応に与えられたものを使って生きる。

それは希望を持たなくなってこそ、心の底からそう思えるものだと思う。

 

世の中のすべては代替可能なものである。

無いなら無い状態で世界は回る。

「あったらいい」ものは「なくてもいい」もので、そんなものに執着していることはバカらしいと思う。

望みがなくても人は生きていける。

放っておけば腹が減るし、腹が減れば飯を食うのである。

人間は人間である前に、動物であり生物である。

飯食って、糞して、寝るだけでも十分である。

幸せな豚より不幸なソクラテスの方が良いとは限らない。

それは結局、人間の生成した価値という尺度の中での話である。

自己実現」が至上の命題のごとく持て囃されるのは、誰かが作ったルールの中だけでの話である。

そこで皆と一緒に踊りたいなら踊ればいい。

私は周りで拍手しながら見ているだけで十分である。

 

チャンスがあれば、飛びついて楽しいことをすればいい。

巡ってこないなら、無理に探しに行かなくていい。

一生来ないかもしれないし、どこかでひょっこり顔を出すかもしれない。

もっと絶望すればいい。

日々の営為が究極的には意味のないこと、生産性など皆無であることを知ればいい。

知ってそれを認めた上で、白紙の上にもう一度、線を引き直せばいい。

どうせ失われるとわかっていても、それでも欲しいものはあるかもしれない。

やっておきたいことはあるかもしれない。

大切なのは、それが手に入っても入らなくても、できてもできなくても、大したことではないということである。

すべては波打ち際の砂の城のようなものである。