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異呆人

毒にも薬にもならない呟き

人間らしさについて

「人間らしさ」とはなんだろうか。

普段、情が薄い人や感情表現の乏しい人などに対して、「人間味がない」と言ったりする。

「人情味がない」と言うならわかるが、「人間味がない」と言うと、まるで「人間らしくない」と言っているように聞こえる。

実際に、そういう感覚で使っている人もいるだろう。

つまり感情表現が豊かで、すぐ泣いたり笑ったり怒ったりする人の方が「人間味がある」と思われていたりする。

そういう意味では、ドラマ「家政婦のミタ」に出てくるあの家政婦などは、「人間味」あるいは「人間らしさ」の対極にあると言えるかもしれない。

 

しかし、その言い方は果たして正しいだろうか。

私が好きな作家の森博嗣氏は、エッセイの中で反対の主張をしていた。

曰く、親子の愛や異性との性愛、本能に基づく感情の発露というのは、動物にも備わっているものである。

それをして「人間的」というのは間違っており、それは「動物的」というに相応しい。

人間の人間たる所以、「人間らしさ」というのは動物にはない理性にある。

つまり論理的で合理的な判断を下す理性的な人間こそ、「人間らしい」と言える。

といったような内容だったと思う。

うろ覚えだし、私なりの解釈なので、違っていると言う人もいるかもしれないが、私自身はこの主張にとても共感したことを覚えている。

 

例えば、上記の主張に対して、「感情的でなく理性的であることは、人間らしいとは言えず『機械的』だ」と言う人がいるかもしれない。

しかし翻って考えれば、機械というのは人間が生み出したものである。

ある意味では機械やロボットというは、人間の能力の拡張であり、人間以上に人間らしい存在と言えるのではないだろうか。

感情のない、味もへったくれもないAIなどを「人間的」と呼ぶことに違和感を感じる人は多いだろうが、シンギュラリティが注目を集めることからわかるように、AIやロボットというのは人間を超えた、より人間らしく進化した存在と言えるのではないかと私は思うのである。

 

人間が動物であることは間違いない。

むしろその事実を忘れて、人間を特殊な存在と考えてしまうことの方が怖い。

しかし、動物の一種類であると同時に、やはり人間にしかない「人間らしさ」というのがあるはずである。

それはやはり「理性」だろう。

人間は経験や観察から世界の道理を少しずつ理解していき、それを応用することで文明を発展させてきた。

論理的思考抜きに、人間の繁栄はあり得なかった。

 

自分の感情を素直に表すことは時に必要だと思うが、それは原初的で動物的な行為だと言える。

その感情をコントロールして適切に処理することこそ、真に人間的な行為だと思う。

今の社会には人を抑圧するような物事やストレスが多く、その反動として泣いたり笑ったりすることが素晴らしいというような風潮が見受けられる。

もちろん抑圧された自己の解放は必要なのだが、それがそのレベルに留まっていては未熟なわけで、解放された自己を適切にコントロールする能力を身につけることが大切なのである。

 

多くの人の失敗というのは、多分に楽観的で、論理的でないことにより引き起こされる。

ゆっくり立ち止まって、考えてみることも時に必要である。

勝てない戦には、逆立ちしたって勝てない。

「足りない分は勇気で補え!」が許されるのは、フィクションの世界だけである。

でも、たまにそれで成功してしまう奴がいるから、みんな夢を見てしまうのだが。

成功率0.01%でも、1万人に1人は成功するから。

その陰の9999人の骸は、多くの人には見えないのである。

 

話が逸れた。

言いたかったのはそういうことでなく、もっと皆が「人間らしく」なりましょう、ということである。

それぞれがの人間が本能の赴くままに生きていたら、その意思がぶつかって争いが生まれる。

どうやったらお互いに共存できるか、理性でもって、頭をひねって考える必要があると思うのだ。

それこそ、AIに世界を統治してもらったら、争いなんて起きない社会になるのではないかと思う。

そういうのを「管理社会」と言って恐れる人もいるが、そもそも他人に迷惑をかけたり、犯罪を犯したりする奴がいるのは、自分の行動を適切に管理できていないことによるものである。

本当に「管理社会」が嫌なら、せめて手前の面倒くらい手前で見ろ、と言いたい。

しっかり「人間らしく」生きろ、と言いたいところである。