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異呆人

毒にも薬にもならない呟き

私の読書遍歴

昔は趣味が読書だと言っていた時期があったが、最近はめっきり本を読む量が減っている。

スマホがあれば時間潰しに困らなくなった、ということが大きいように思う。

最近は移動時間とか、隙間時間でしか読書をしなくなったからである。

昔はそんなことはなかった。

小学生の頃は本を読むことが大好きだった。

家にはどこかでもらってきたり、親がどこかで買ってきた、児童書や偉人伝のようなものがたくさん置いてあった。

偉人伝はキュリー夫人、ワシントン、リンカーンエジソン野口英世、ナポレオン、マルコ・ポーロなどなど、思い出せるだけでもいろいろある。

本当に小さい頃は親に読み聞かせをねだっていたが、いつしか自分で読み始めるようになり、家に置いてある本はほとんど読破してしまった。

それ以外にも当時、私が通っていた小学校には読書の時間というものがあり、その時間は図書室でずっと本を読むことが義務付けられていた。

私はその時間が始まるなりずっと読みふけり、時間が終わっても気付かなかったりした。

人に声をかけられても反応しなかったようで、当時はそれだけの集中力でもって物語の世界に没頭していたのだろう。

単純に物語の世界が面白くて好きだった。

いつしかこんな物語を自分でも書きたいと、この頃は思っていたものだった。

 

中学校に上がると部活動を始めたので、読書の時間は減った。

あれこれ思い悩むようにもなり、今までのように純粋に物語を面白がることもできなくなっていた。

「生きる意味」とか考え始め、哲学書に手を出し始めたのもこの時期である。

哲学の効用 - 異呆人

ソフィーの世界 - 異呆人

そんな時、哲学書と間違えてうっかり手を出してしまったのが、土屋賢二氏の著作だった。

土屋氏はお茶の水女子大の哲学科の教授である。

そして著書のタイトルも、有名な哲学の金言をもじったものだったりする。

てっきり哲学書か何かかと思って手に取ったら、まさかの爆笑(失笑?)エッセイだった。

このセンセーショナルな出会いは、私の読書の仕方を根本的に変えたと言っていい。

私はそれまで、適当に面白そうな本を手にとって読む、ということを繰り返す読書スタイルだったが、以後、好きな作者を見つけてはその人の本を片っ端から読む、というスタイルに変わった。

私はほとんどどこの書店にも並んでいない土屋氏の過去の著作を、わざわざ図書館に行って探すことまでした。

土屋氏はマイナーだし、面白さを伝えるのが難しい本なのだが、高校時代に友人が私が読んでいるのに興味を持ったので貸してみたら、迂闊にも授業中に隠れて読んでたところ吹き出してしまい、教師に怒られるという失態を演じたことがある。

まぁ、それくらい面白い。

 

高校時代は、クラシカルな作品も積極的に読むようにした。

いわゆる教科書に載るような作品だったり、文学史に出てくるようなお堅い作者の作品だったりである。

太宰治とか森鴎外とか志賀直哉とかカフカとかカミュとかドストエフスキーとか、そんな感じである。

長きに渡り読み継がれるからには、そこには何か普遍的なエッセンスがあるに違いない、それは人として教養を高める上で役に立つはずだ、というのが当時の私の発想だった。

そんな中、一番ハマったのは夏目漱石だった。

夏目漱石の作品は、一通り全部読んだ。

漱石の面白いところは、個人的苦悩が文学化されることで普遍性を獲得していることにある。

胃を病んで死んだのが納得できるようなセンシティブな性格が、文章から伝わってくる。

そして書かれていることは大抵が個人的な苦悩だったりするのに、それが自分にも当てはまることであるように受け入れられるのである。

それが下手に難しくならず、物語の面白さと絡まりながら素直に読み手に伝わるのが、漱石の魅力であり長く読み継がれる所以、文豪と言われる所以だと思う。

 

大学時代からはミステリーを読み始めるようになった。

これもきっかけは土屋賢二氏の著作にある。

土屋氏の著作のあとがきを、ミステリー作家の森博嗣氏が書いていて、土屋氏のことを絶賛していたのだ。

「土屋氏の面白さがわかる人がミステリー作家にいたとは」と、最初に読んだときは感慨深く思っただけだった。

しかしその数年後、大学の生協ですっかり人気作家となった森博嗣氏の代表作「すべてはFになる」が平積みされているのを見たのだ。

森氏の名前を覚えていた私は、「どれ試しに一つ」と思って読んでみることにした。

読んだ感想を一言で言えば、「衝撃的」だった。

それまで純文学を中心に読んできた私としては、失礼ながら娯楽小説としてのミステリーを軽くみていたところがあった。

しかし「純文学」だとか「ミステリー」だとか、そんな枠組みがどうでもよく思えるくらい、「すべてはFになる」は面白かった。

確かにトリックやストーリー展開も衝撃的なのだが、私はラストの犯人が再び主人公の前に現れるシーンで鳥肌が立つ興奮を覚えたものである。

森氏の作品はよく「理系ミステリー」などと言われて、ロジカルな部分や専門用語の羅列が取り上げられたりするが、個人的には森氏の作品の魅力はポエティックな文章にあると思う。

作品の空気感や登場人物の持つミステリアスな雰囲気が良いのである。

ちなみに森氏は速筆で有名で、デビュー前に「すべてがFになる」から始まる「S&Mシリーズ」を4作品完成させていたのだが、その4作目だった「すべてがFになる」が圧倒的に面白かったので、時系列をいじってデビュー作にされたという逸話がある。

すべてがFになる」は、それくらい面白い。

この「S&Mシリーズ」はいつぞや、武井咲綾野剛の主演で連続ドラマ化されていた。

私は見ていないのだが、ファンが怒る出来栄えだったと漏れ聞いている。

あと、前述の土屋氏と森氏には「人間は考えるFになる」という対談集があり、両者のファンである私からすれば「一度で二度美味しい」的な企画だった。

 

その後、ミステリーを中心にいろんな作家に手を出した。

比較的読んだのは、西尾維新氏だった。

西尾氏の「戯言シリーズ」の初期はミステリーテイストだったのだが、途中から完全に人外バトル物に変質して食傷気味になってしまった。

面白かったのは面白かったので全部読んだが、さすがにその後の「物語シリーズ」などは読んでいない。

西尾氏はキャラ造形が秀逸だなと思う。

戯言シリーズ」の登場人物、「人類最強」の呼び名を持つ哀川潤は、漫画や小説の登場人物中、私が最も好きなキャラクターの一人である。

 

仕事をし始めるようになってから、東京に出てきてから読み始めるようになったのが京極夏彦氏である。

これは東京に出てきてから森博嗣氏関連のオフ会に参加した時に、森氏のファンに京極氏のファンが多く、「面白いよ」と勧められたことが理由である。

読んでみたら、自分にとっては久しぶりの大当たりで、すぐに著作を全部読むことになった。

西尾氏もそうだし、森氏もそうだが、京極氏もキャラ造形が非常にうまく、シリーズになることでキャラクターの深みがより出るようになる。

加えて、森氏と京極氏はミステリーとしてもトリックやストーリーが精緻で、非常に読ませる。

こう考えると、キャラクターというのは料理における材料で、ストーリーというのは味付けのようなものだなと思う。

良い材料だけで食べさせることもできるが、それがストーリーによりうまく味付けされると、さらにご飯が進むのである。

まぁこの両者はストーリーもキャラもよくできているが、話が長いことだけが難点で、文庫本が立方体になることで有名である。

私の本棚には、まだ手をつけていない京極氏の「百鬼夜行・陽」と「隠」の2冊が眠っている。

ちょっと昨今の読書量では、まず読み始めるのに勇気がいる。

 

読書量が減っている理由の一つが、新聞を読んでいるからというのもある。

大学を出てからずっと日経新聞を読んでいるが、朝刊に30分、夕刊に15分はかかる。

当ブログの内容からもわかるかもしれないが、私は政治や経済も興味を持って注視している。

だからこの時間を削ることはできないのである。

テレビのニュース番組だとどうしても情報量が足りないし、最近はワイドショー的な野次馬ニュースが多いなと感じる。

本をもっと読みたいなぁとは思うのだが、最近のアクティビティの時間配分からすれば、これ以上どこかから時間を削り出すことは難しい。

ちなみに今読んでいるのは、「ストーリーとしての競争戦略」というビジネス書である。

これがめっぽう面白い。

読み終わったら、感想を兼ねて記事を書きたいと思っている。