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異呆人

毒にも薬にもならない呟き

オーバースペック

何年か前からずっと、私自身は私の人生にとってオーバースペックだなと思っている。

私には野心がないし、欲がない。

欲しいものがないし、こうしたいという強い希望もない。

それは私が人生というものを、死んで終いの物語だと思っているからである。

死ねば自分にとっては何も残らない。

良い人生だろうと、悪い人生だろうと同じである。

何を持っていようが、持たざる者だろうが同じである。

せめて生きている間、極度に辛い思いをしなければ、そこそこに生きていられればいいのである。

余計なことさえしなければ、そんな地雷を踏むこともない。

だから決して転落することのない安全な場所で、少し遊んでいられれば十分だと思っている。

 

しかし生きていると人と関わるし、人と関わると放って置けなくなったり、放って置かれなかったりする。

仕事をし始めてから、特にそう感じ始めた。

私は普通に目の前の仕事をしているだけである。

それで成果が出る→誰かの目に留まり、使えるやつだと思われる→さらに仕事が振られる→それで成果が出る→以下略。

手を抜けばいいのだが、性格的にそれができない。

あればあるだけやってしまう。

それで身近な人が助かっていると嬉しく思ってしまう。

周囲は勝手に評価するし、勝手に期待する。

今の会社に入った時も、「面接では取るか取らないか迷うギリギリのラインだった」と聞いたが、実際に仕事をし出すと「なんでうちの会社に来たの?もっと良い会社で仕事できるでしょ?」とか言われる始末である。

自己アピールが苦手だから面接では割りを食うだけなのだが、まぁ随分な言われようである。

手を抜けないのはもう性分だと思って諦めているのだが、もし自分が一人前の仕事をするのが精一杯の能力の持ち主だったら、こうはならなかっただろうなと思う。

私が自分のことで精一杯の人間だったら、万年平社員で自分の趣味などを密かな楽しみに、細々と生きていけたのではないかと夢想してしまう。

お金はなければ生きていけないし、あればあるだけいいものだが、なくてもそれなりに楽しんで生きていくことはできる。

 

恋愛においてもそうである。

私はずっと1人で生きていきたいと思っていた。

考えを変えて結婚することにしたのだが、それはほんのここ2年くらいの話である。

しかしこの「1人で生きていきたい」というのはなかなか理解されづらいもので、「本当は彼女が欲しいんじゃないか」と思われたり、「もったいない」とお節介を焼かれたりして、放っておいてくれないことも多かった。

遠回しに、あるいはストレートに好意を伝えられることもあったし、「ぜひ会って欲しい人がいる」、「1回一緒に飲みに行くだけでいいから」と女性を紹介されることもあった。

これもせめて容姿が並以下だったなら、「仕方ないね」となって諦められたり、自分自身もより割り切って生きていけたかもしれない。

もちろん容姿が良いことは生きている上では得をすることの方が多いのだが、個人的には心底不要なものだと思う。

 

そこそこ頭が良くて、そこそこ身体能力が高くて、そこそこ器用で、そこそこ容姿が良いというのは、本来私が望む人生からすれば不要なスペックである。

近場に買い物に行くときしか車に乗らない人間が、時速300km出るスポーツカーを持っていたって意味がないのと同じである。

むしろ燃費の良い軽自動車が欲しいところなのだ。

なまじ中途半端な高性能であるゆえに、自分の人生が歪んでいるところがあるように思う。

だからどうということはないのだが。

大は小を兼ねるではないが、オーバースペックでそれほど困ることはない。

無駄だなと思う、必要な誰かに分けてあげたいと思うだけである。

ただ私は、生来のめんどくさがりでもある。

その能力を生かすためにフルパワーで活動したいと思わないし、世のため人のため、あるいは世の中を変えるために自分の力を使いたいと思わない。

いや正確にはそう思った時期もあるし、今でもそう思わないでもないのだが、そのために大きなリスクを背負ってまで何かをすることはめんどくさいなと思う。

失敗しても傷が深くならない範囲、「安全圏で少し遊ぶ」くらいで十分である。

 

ある意味では、結婚を選択したこと自体が、自分の能力の余分を誰かに分け与えたかったからでもある。

世の中全体に向けて放出することは、力が分散するしめんどくさい。

しかし身近な特定の誰かのためであれば、存分に余分な能力を注いであげることができる。

だから私は妻に尽くす。

家事でもなんでもできることはしてあげるし、金も先々困らないようにではあるが好きに使ってもらっている。

能力も金も時間も、私に余分なものはすべて与えたい。

妻はそれで「ラッキー」と思うタイプではなく、「自分がその恩恵を受けるだけの人間だろうか」と悩むタイプなので、慢心という心配はしないで良い。

そういう真面目さが好きなのである。

彼女が本当にそれを不安に思って自分を磨くなら、それは一時的には大変なことでも、先々彼女自身にとってプラスになるはずだ。

そしてそうやって余った力を遠慮なく注げる対象がいることが、自分という人間の出力の安定に繋がっていると思う。


安定稼働している自分というのは不思議な感覚で、とても落ち着いているし、余計なことを考えない。

このままゆっくり生きていきたいと思う。

同時に、やっぱりいつ死んでもいいなとも思う。

残される者のことだけ考えなければ、それこそ明日死んだっていい。

この気持ちだけは、やはり消えないようである。