異呆人

毒にも薬にもならない呟き

世界には「タラ」も「レバ」もない

今週のお題「私のタラレバ」

 

元も子もないタイトルである。

でも、心底そう思っているのだから仕方ない。

もちろん、小さなことで一瞬そう思うことはある。

競馬で「あの馬を本命にしていれば」とか、「馬単でなく馬連で買っていれば」なんてのはよくあるし、「もう10分早く家を出ていれば1本前の電車に乗れたのに」とか、「味噌ラーメン定食じゃなくて回鍋肉定食にしておけばよかった」なんてことも、よくある話である。

しかしそんな後悔というのはほんの数秒のもので、大抵は明日を待たずにさっぱり諦められてしまう。

それは、常に自分が最善の選択をしているという自信があるからである。

 

それは最善の結果を選び取っているということではない。

与えられた情報や条件の中で、私が選び得る最善である。

最善を選んだが、失敗することも多い。

条件が変わればもっと良い選択はできるだろうし、私でなく他の誰かが考えればもっと良い選択もできるだろう。

だが、その瞬間に揃う条件はワンパターンだし、選ぶのが私以外の誰かになることもあり得ないし、その仮定自体がナンセンスである。

先日、サッポロのCMで所ジョージさんが「みんな一番良い選択をしているはずだよ」的なことを言っていた。

それと同じことである。

 

皆がそのとき一番良いと思える選択肢を選んでいる。

その集積によって世界は出来上がる。

一番良い選択なのだから、他の選択肢は選びようはずがない。

つまり、どれだけたくさん選択肢があろうと、世界はたった一つのパターンでしか進行しない。

「たら」、「れば」は存在しないので、反省することに意味はあっても後悔することに意味はない。

もし同じ条件下で同じ人が選択を迫られたら、同じ選択肢を選ぶはずである。

ちなみに、そういう世界がたった一つのパターンでしか進行しないことを、私は「運命」だと考えている。

運命論 - 異呆人

上の記事の最後に書いてあることが、私の「たられば」に対する考え方である。

 

もし今の自分が過去に戻ってやり直せ「たら」、何がしたいだろうか。

考えてみても、やはり「こうしたい」とか「ああしたい」とか思いつかない。

もしパラレルワールドが存在して、他の選択が実現できたとしても、それはそれできっと楽しい世界なのだろうが、今より100%すべての面で上回っている良い世界だとは思えない。

選んだ選択肢の陰で、選ばなかった選択肢がある。

新しく誰かと出会うなら、出会わなくなる人がいる。

どこかで得をしたら、どこかで損をするのではないだろうか。

 

まぁ、考えるだけならタダである。

そうやってあれこれ想像を巡らせて楽しむのも、人間に与えられた特権だと思うし。

真面目に「たられば」を考えないのであれば、多分に希望的な「たられば」はみんなでわいわい盛り上がるための酒の肴にもなる。

でも、楽しい「たられば」もなかなか思い付かないのだが。

どうも人生に希望的になれないのが性分らしい。