異呆人

毒にも薬にもならない呟き

個の世界と実世界

多くの人は「幸せになりたい」と思って、今この瞬間を生きているのだろう。

私はあまり幸せかどうかということを物差しにして生きていない。

幸せって何だろう? - 異呆人

それは上の記事に書いている理由からである。

幸せとはそれくらい解釈の幅の広いものだと思うし、軽いものだと思う。

幸せになることは非常に簡単なことなのだ。

自分の認識の持ちようで、なんとでもその基準を変えることができる類のものである。

 

例えば、「年収1000万円稼げるようになる」という目標と、「幸せになる」という目標では、前者の方が難しいのは言うまでもない。

年収1000万円を稼ぐのに必要なスキルや運やコネクションは、誰でも手に入れられるものではない。

「年収1000万円」は世界に存在する確たる基準で、自分で基準をどうにかすることはできない。

しかし「幸せ」という基準であれば、自分の頭の中で上げ下げできる。

自己暗示さえしっかりかけられれば、「三食食べられるだけで幸せ」とか、「屋根のあるところで寝られるだけ幸せ」と感じることも可能である。

「幸せ」など、追いかける必要もない。

答えは自分の中で設定できる。

 

それは、私たち自身の認識が一つの世界を形成している証拠だと言える。

価値はどこまでも相対的なもので、世の中一般がどうであろうが、自分が是とすれば是になるのである。

自分が死んでしまえば、それで世界は終わる。

その人の世界は終わってしまう。

認識できないものは、存在しないのと同じようなものである。

このように形成されている世界を、私は「個の世界」と考えている。

自分の人生における主役は、自分以外の何者でもないのである。

だから自分の認識を上手い具合に操作できれば、人生は簡単に至上のものとなる。

まぁ認識操作も行き過ぎればポリアンナ症候群みたいになるので、やればいいというものでもない。

「個の世界」はあくまで自分だけの世界である。

それは決してシェアできないので、つまりは自分の世界に逃げ込むこと、現実逃避と背中合わせなのである。

私たちは、それぞれの認識を完全に合致させることができない。

つまり、どこまでいってもわかり合えない存在なのである。

人と人はわかり合えないから - 異呆人

 

私たちは「個の世界」を覗き合うことはできない。

だからわかり合えない。

それでも共通の認識を持ち得る。

それは同じ世界を生きているからである。

2人の人間がいて、目の前に1つの林檎があるとする。

その林檎をどのように認識するかは、それぞれだろう。

だが目の前に林檎があることは、共通の認識として持ち得る。

これは前提条件を設定する必要があるし、突き詰めていくと記号論とかも出てくるのだが、ここではあまり細かい話はしない。

この私たちの認識に関係なく存在している世界を、私は「実世界」と考えている。

認識できないものは存在していないも同然だが、本当に存在しないわけではない。

人がそれぞれ異なる形で世界を認識しながらも、多くの点において世界観や価値観を共有できるのは、当たり前ながら同じ世界を生きているからである。

 

「個の世界」に入り込むことで、私たちは簡単に幸せになれる。

それは自慰行為に似た気持ち良さがある。

「個の世界」はシェアできないが故に、絶対不可侵である。

誰がなんと言おうと、「私はこう思っている」以上はそれがすべてになるのである。

しかし「貧しくても幸せ」なんてのが美談になるのは、それが節度を保っているからである。

行き過ぎればただの自己満足であり、現実逃避である。

まぁ基本的に人生なんてほぼすべて自己満足なのだから、それがさほど悪いとも思わない。

だが、良いことだとも思わない。

自己満足、エゴというのは、往々にして互いのそれがぶつかり合う自体を招くからである。

 

誰もが自分の「こうしたい」や「こうありたい」を貫いていく結果どうなるかといえば、誰かの「こうしたい」や「こうありたい」が自分の望みを遮る形で現れて、諍いが起こるのである。

「実世界」には質量がある。

目の前に林檎が1つあり、2人の人間がそれぞれ「丸々1つ食べたい」と思ったなら、どちらかが諦めるか、分け合うかしかなくなるのである。

だから人が「個の世界」を充実させるために認識をいじくったり、実際に行動して無条件に「実世界」に影響を及ぼしていいのは、それが誰かの「個の世界」とぶつからない範囲で、である。

お互いの「個の世界」が重なる部分があるのであれば、それは譲り合って妥協点を探っていくしかない。

頭の中をお花畑にして幸せになるのは勝手だが、それが「実世界」を通じて誰かに迷惑をかけるのであれば話は別である。

 

もちろん、完璧に誰にも迷惑をかけずに生きていくことなど不可能である。

そこはお互い様で、ほどほどに許し合って譲り合っていけばいい。

なんだか最近、「私は!私が!」という人が増えてきているような気がしてならない。

「個の世界」において「私」は間違いなく主役であるが、同時に「実世界」においては代替の効く歯車の一つ、いや、なくてもいい歯車の一つでしかないのである。

その二つの認識を天秤にかけてバランスを取ることが、生きていく上では大切なことなのではないかと思う。