異呆人

毒にも薬にもならない呟き

フィクションの楽しみ方

結局、小説を書くという作業は一向に進んでいない。

あまりやる気もなくなっている。

それはさておき、世の中にはフィクションとしての作品が溢れている。

小説もそうだし、漫画やアニメもそうだし、映画やTVドラマもそうだし、音楽や絵画やその他芸術作品、ダンスなどの身体表現もそうである。

ノンフィクションは基本的に事実に基づいているので、解釈の余地はあるにはあるが、それは解釈というより多面的な現実をいろんな側面から見るということだろう。

それに対してフィクンションとしての作品には、様々な解釈の余地がある。

それは余白があるということである。

語られない部分がある。

そこは受け手の想像力に委ねられている。

実際の世界には余白はない。

世界は寸分の間隙もなく、理屈とか意味とか無意味とかで埋め尽くされている。

 

フィクションにおいては何をどう語るかが大切なのだが、何をどう語らないかも大切である。

想像の余地をどれだけどのように残すかで、作品の奥行きや価値そのものが変わることが往々にしてある。

そこもまたフィクションの送り手の力量である。

フィクションを作る人間には、もちろん作る動機やその作品に込めた意味がある。

しかし、込めた意味を受け手が正しく受け取ってくれるとは限らない。

誤解されることなど頻繁にあるだろう。

どれほど深遠な意味を込めて娯楽作品を作っても、受け手が娯楽の側面しか受け取らなければそれまでである。

反対に、金儲けのために作ったり、ノリや勢いで作った作品でも、受け手が深遠な意味を読み取ってしまえば、過剰に評価されることもあるだろう。

そういったことが起こるのは、フィクションには語られない部分、あるいは語りきれない部分がたくさんあるからである。

 

私はフィクションの解釈や評価には、正しいもへったくれもないと思っている。

いくら送り手が「私はこの作品にこういう意味を込めて作った」と主張しても、受け手がそれを読み取れなければ、その意味はなかったも同じである。

まだ本人が健在で主張できるうちや、その意味が語り継がれるうちはいいだろうが、その作品だけが残るようになった後は、そこから読み取れないような意味は誰にも届かない。

反対に、受け手が「この作品にはこういう意味が込められているんだ!」と感じ取ってしまえば、それが正しいとか正しくないとかではなく、一つの解釈として成立してしまうのである。

だからそんな反応に対して、送り手が「いや、俺、そんな意味込めてねぇし」とか言うのは野暮だし、他の受け手が「お前の解釈は間違っている」と否定するのも野暮である。

むしろ、込めた意味が正しく伝わらなかったのであれば、それは送り手の力量不足と言わざるを得ないだろう。

 

フィクションたる作品というのは、子供のようなものではないかと思う。

よくそう表現する送り手がいるが(そしてそれがどのような意味を込めて使われる表現なのかはわからないが)、実際にその通りだと思う。

作品を世に送り出した側は、ときに意味や主張や願いを込めて送り出すのだろうが、送り出した時点でその作品は送り手そのものではなく、別個の存在となってしまうのである。

だから一人歩きする、送り手の手を離れて。

親が子供を「こういう大人になってほしい」と思って育てても、そのようになるとは限らないのと同じである。

子供を育てるのは親だが、親の思惑とは別に子供は自ら育ちもする。

 

だからフィクションたる作品は、自由に楽しむものだと思う。

それはときに強烈なメッセージを持って意味や主張を訴えてくるかもしれないし、ときに水晶玉を覗いたように自らを浮かび上がらせてくるかもしれない。

ときに万華鏡のようにただ幻惑させられるだけかもしれないし、ときに何も感じることがないかもしれない。

それらすべての解釈が作品そのものが持つ一つの側面であり、どれもが正解であり正解ではない。

あまり肩肘張らずに、思うように楽しめばいいと思う。