異呆人

毒にも薬にもならない呟き

アイデンティティなるもの

昔は自分らしさというものに、物凄くこだわりがあった。

いわゆるアイデンティティという奴である。

「何のために生きているのか」という悩みが、10代の頃の大きなテーマであったのだが、それは「人と違う自分なりの特別な意味が欲しかった」ということでもある。

唯一無二な自分らしさというのは、その悩みに対する綺麗な回答だと思えた。

だから硬い石に打ちつけるようにして、アイデンティティを主張していた。

「私はこういう人間だ」、「私はこういうスタンスで生きている」と、問われてもいないのに表明し、衣服を身に纏うように体現していた。

そうしていないと、世間の大きな流れの中で自分自身が埋没してしまうような気がしたのかもしれない。

 

そういった行為は後から考えると気恥ずかしいものであるが、害があったとか、不要だったとは思わない。

きっとそれは通らなければならない道で、そうやって試金石にアイデンティティを打ちつけることで、自分自身を錬磨することができたのだと思う。

今の自分が今のような自分であるのは、そういった自己主張のおかげだとも思う。

そうして錬磨した結果、残った自分というのは、「これが自分です」などと一言で言い表せるものではなく、何層にも絵の具を重ねて塗りたくった絵のような、味わいはあるが複雑で、何と呼べばいいかわからないようなものになっている。

 

人間というのは、多層的で多面的なものなのだ。

自分の中の多様な要素が時に矛盾したり、連関したりしながら、一つの人間が構成されているのである。

それは皆が皆そうで、だから「あいつはこういう奴だ」という決めつけは、ある点では正しくて、ある点では間違っていたりする。

全方位から完全な評価を下すのは無理な話ではあるので、そういった決めつけが悪いわけではない。

大切なのは、本来安易に決めつけられるものではないと、頭の片隅で理解しておくことだと思う。

 

先日の成人式の馬鹿騒ぎを見て、そんな若さ故の自己主張を思い出した。

あれも後には恥ずかしい思い出になるのか、武勇伝になるのかわからないが、他人に迷惑をかけたり法令に反するのでなければ、すでに儀式を終えた大人たちは生温かく見守ってあげればいいと思う。

ちなみに私は成人式に参加していない。

ちょうど祖父が余命僅かで、帰省の飛行機代を残しておきたかったし、成人式のためにわざわざ飛行機で3時間かけて帰るのもめんどくさかった。

小中学校の友人が、てっきり私が帰ってきていると思って「今どこ?」と電話をかけてきたのだが、「沖縄」と正直に答えたら、それ以上は何も聞かれなかった。

その日は普通に塾講師のバイトをしていたのだが、中学生の生徒たちから「成人式行かなくていいの?」と、やたら聞かれた。

そういえば、小中学生の頃、微妙な関係だった女友達が、成人式の会場で私を探していたと後から聞いた。

成人式に行かなかったことは後悔していない。
 
最近は自分らしさの主張をしなくなったと、ふと気付いた。
「どうぞ皆さん、これが私です!」などと、大仰に主張する必要を感じなくなった。
承認欲求というか、理解してほしいという気持ちが、どんどん薄れているのかもしれない。
誤解されてもあまり気にならないし、言いたい奴に好きに言わせても、何とも思わなくなった。
確信が芽生えたと言ってもいい。
いろんな土地に行き、いろんなことをした結果、私はどこで何をしていても私だし、私のいる場所が私の居場所に形を変えると知った。
どうも黙って見ていられない性分なので、口を出し、手を出し関わっているうちに、いつの間にか舞台の前方に押し出されることになるらしい。
気付いたら、いつも同じような立ち位置にいる。
若い頃はそれが嫌で、しがらみが増える度に静かな方へ静かな方へと逃げていたのだが、それを自分の宿命と割り切ると案外楽に受け入れられた。
 
思うに、アイデンティティというのは自分で考えたり見つけたりするものではなく、他人から見つけてもらうもの、周囲との関係性により定義されるものではないだろうか。
自分らしさ、自己同一性というのは、比較対象があって初めて生まれる。
いくら自ら声高にアイデンティティを叫んでも、その人自身が社会においてその性質を帯びていなければ、ただの立て看板のようなものである。
「私はこういう人間です」と主張するのは簡単だが、根拠がなければ意味がない。
他人の評価は、最も身近な客観的根拠になり得る。
それは他人の評価を気にしろということではない。
アイデンティティが確固たるものになっているなら、自然と周囲の評価も固まるということである。
それが確かであればあるほど、環境や周りの人間が変わっても、同じような評価をされるし、同じような関係性を結ぶことになる。
 
最初に述べたように、人間というのは一言で言い表せない複雑な存在である。
だから自分の考える自分と他人の考える自分が違っていても、さほど気にすることではない。
ただ、他人から違って見えるのには理由がある訳で、それもまた自分の一面、あるいは自分が思っているより濃く表れている自分だと認めなければならない。
自分自身のすべてなんて、評価してもらえようはずがない。
自分自身でだって、理解しきれない部分もあるだろう。
適度な諦めと、自然体でいることが大切だと感じる。
どんなに頑張ったって、周りの評価が不服だったって、自分は自分以外の何者にもなれない。
探しに行かなくても、どこにも行かないのだから、死ぬまでじっくり付き合ってみればいいと思う。