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異呆人

毒にも薬にもならない呟き

選ぶこと、選ばないこと

随想

今もまだネットのリクルートサイトに登録しているので、しばしば求人のメールが来る。

中には面白そうな仕事もあって、ちょっとやってみたいなと思ったりもするのだが、結婚を控えた現状で転職などできようはずもない。

というか、しばらく前にやろうとしてみて不発に終わった経緯もある。

久しぶりの面接① - 異呆人

久しぶりの面接② - 異呆人

転職したいというわけではなく、何か新しいことに挑戦したいという気分である。

今あるスキルで仕事が賄われてしまうことに、不安というか不満がある。

止まっていると感じる。

変化しないということは、成長しないということである。

 

昔はとにかく自由に生きていたかった。

だからいろんなことに挑戦してみたというのもあるし、反対にいろんなことを決めずに生きていた。

決めないことで、選択肢をいつまでも持ったままにできる。

自由というのは好きに選ぶことができるということだから、可能性をできるだけ多く残したまま生きることが、自由に生きるということだと言うこともできると思う。

何かを決めた瞬間、選んだ瞬間、他の選択肢が消えてしまうことはよくある。

多かれ少なかれ、そうやって取捨選択して生きていくのが人生である。

だから生きるほどに、人生の自由度というのは低くなるものだと思う。

 

しかしいくら決めずに生きていても、やはり少しずつ何かを決めて選んで生きているのである。

少なくとも、決めないということを決める、選ばないということを選んでいるはずである。

選択肢を保留するという選択をしている。

無限の可能性を残したまま、ニートとして生きていくことはできない。

時間は放っておいても過ぎていく。

選ばないことを選んだ結果、選ばない間に消えてしまう選択肢がある。

 

10代のときは、将来の自分を妄想するだけ妄想できた。

プロスポーツ選手やプロ棋士など、その時点で不可能な選択肢もあっただろうが、それでも前途はかなり拓けていたはずである。

例えば、それが大学や学部学科を選ぶことでいくつかの選択肢が消えてしまう。

大学を卒業して就職することで、さらにいくつもの選択肢が消えてしまう。

早いうちなら転職も可能だろうし、候補先はまだ数多いだろうが、それを重ねていくとどんどん選択肢が少なくなってくる。

別に仕事に限らない。

いくつになっても結婚することはできる。

子供を持つことは、年齢による限界がある。

また子供を持ったとしたら、それが20代なのか30代なのか40代なのかによって、その後の人生の展開はかなり異なってくるはずである。

選ばないことはできる。

しかし、選ばない間に失われていく選択肢もある。

消極的な選択だから将来後悔するとも限らない。

積極的に好き好んで選び取っても、後悔するときは後悔する。

 

今まだ30代に入ってさほど年数は経っていないが、今、選べる選択肢はあまり多くはないなと感じる。

もちろん選ぶだけなら自由だが、その先の道は保証されていないわけで、つまりリスクがある。

そして挽回が効かないという意味で、そのリスクは歳を重ねるごとに大きくなる。

何を選んで何を選ばないべきか。

今、私は結婚することを選んだし、それによりほぼ転職しないことを選んだ。

それでも冒頭のように別の人生の可能性を垣間見ては、やはり選ぶことと同時に捨てた可能性に、後ろ髪を引かれるような思いもするのである。

なんとも複雑な気分である。

 

結婚も、しなくてもいいといえば、しなくてもよかった。

セックスだけなら結婚までしなくてもいい。

なんなら「入浴」で済ますこともできる。

寂しいという感覚もない。

愛情がほしいというわけでもない。

子供がほしいという気持ちがあって、その気持ちを経済的合理性をもって叶えるには、今がいいと判断したということが大きい。

その相手として、自分が愛情を注げる相手として、今の彼女を選んだ。

相手にも、そして選んだプロセスにも不満はない。

 

しかし、いつもそんな自分の人生を俯瞰するように見てしまうと、虚しさのようなものを感じてしまう。

これで良かったのかと自問しても、これしか選びようがなかったと思える。

ただいつまで経っても、自分の中に空いた穴の埋め方がわからないだけなのだろう。

いつか自信を持って、生きてて良かったと思ってみたいものである。