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異呆人

毒にも薬にもならない呟き

初笑いをお届けします

先日、手帳に関する記事を書いたが、同じ時期になると思い出すのが年賀状である。

年賀状という文化自体が廃れてきている気がするし、昨今はメールやLINEやSNSで済ませる人も増えてきている。

私は年賀状を送るべきともやめるべきとも思わないので、出したい人が出せばいいと思っている。

新年の挨拶の葉書である。

わざわざ、いち早く挨拶したい相手にだけ出せばいい。

受け取る側も、気持ちのこもっていない義務感だけの年賀状を受け取っても、返事をどうすべきか気にする羽目になるだけである。

ならいっそ、やめてしまった方が清々するだろう。

最近は企業でも「虚礼廃止」とやらで、年賀状を送るところは減ってきているように思う。

コストと手間もカットできて、一石二鳥なのかもしれない。

 

私は毎年、年賀状を書き続けている。

年賀状のやり取りしかなくなっている人もいるし、遠方で気軽に会えない人もいる。

私にとっては、体の良い近況報告の手段である。

別に返事が来なくても気にしないが、受け取る相手が負担に思わないかだけは気にしている。

何年も会っていなくて年賀状の返事も来ないなら、送るのをやめた方がいいと判断している。

毎年、20通から30通くらい出す。

学生時代の仲間やお世話になった先生方などがほとんどで、最近は新しく送る相手が増えることは少ない。

「年賀状を書く」という話題になったときに、「ほしい!」と言われた相手に送るくらいである。

 

送る相手が増えられても困る、というのが本音ではある。

私は年賀状を、宛名から裏面の絵や文章まで、すべて手書きしているからである。

言っても数時間ではあるが、続けて書いていると腱鞘炎になるんじゃないかと思う。

ちなみに私は字が汚い。

悪筆は天才か? - 異呆人

おまけに絵も絶望的なレベルである。

今年の年賀状を弟夫婦宛てに送ったら、干支の絵の出来を面白がった義妹が「甥っ子と姪っ子の似顔絵を描いてみてください」と言ってきた。

なら見せてやろうと、二人を見ながらチラシの裏に真剣に書いたのだが、出来上がった絵を見た姪っ子は、「きゃー!」と意味不明な叫び声をあげて逃げていった。

そんなレベルである。

 

ではなぜ手書きで年賀状を書き続けるのか。

それは、汚い字、下手な絵こそが、私のアイデンティティの一つだからである。

受け取った人は、汚い字と下手な絵と意味不明な一言を見て、「あぁ、そういえば朱天って、こういう奴だったな」と思い出すのである。

手書き文字には温かみがあると言われたりする。

私には温かみのある字など書けないが、そこに人間味があるという意味では共感できる。

別に文字でなくてもいいわけだが、その人の味が出ている年賀状を送ることは、「年賀状を送る」という行為そのものの意味と通じるところがあると思う。

ワープロで量産された年賀状を受け取っても、義理しか感じないだろう。

義理つながりでは、バレンタインの義理チョコと同じくらい厄介である。

 

送り返していただく年賀状には、「いつも初笑いをありがとう」と書かれていたりする。

私にあえて似顔絵を描かせた義妹も、ある意味では私の絵を楽しんでくれたということだろう。

それで十分、本望である。

そうやって受け取る人の反応を想像しながら年賀状を書くことは、辛い作業ではあるが、私にとって年末の恒例行事であり楽しみでもある。

来年の干支は酉。

さて、どんなアバンギャルドな鳥を書くか、これから頭を悩ませなければならない。