異呆人

毒にも薬にもならない呟き

ポジティブな人が成長できる

toianna.hatenablog.com

facebookを見ていたら、友達の友達とかの全然知らない人が取り上げてコメントしていて、ちょっと面白かったので引っ張ってみた。

よく見ると1年以上前の記事だが、コメントした人はどこで引っ掛けてきたのだろう。

 

さて、そもそも「成長」とはなんだろうか。

 

せい‐ちょう〔‐チヤウ〕【成長】

[名](スル)
1 人や動植物が育って大きくなること。おとなになること。「子供が成長する」「ひなが成長する」「経験が人を成長させる」
2 物事の規模が大きくなること。拡大。「事業が成長する」「経済の高度成長」

出典:デジタル大辞泉

 

ネットの辞書を引くとこうなっている。

簡単に言うと、物事が増大する変化の総称である。

だから数値に置き換えられるものであれば、成長しているかどうかは一目である。

反対に数値に置き換えられないものは、成長しているかどうかの判断が難しい。

人間の成長も身体が大きくなっている分にはすぐわかるが、内面や能力の成長となると簡単に数値化できるものばかりではないので難しい。

余談だが、この定義で考えると、体重の増加、つまりただ単に太ることも成長に含まれてしまう。

冗談で太った相手に対して「成長した」と言うことはあるかもしれないが、本人が太ったことを成長と認めることはないだろう。

関取とかなら話は別かもしれないが。

 

では改めて、「成長」とはどういうものだろう。

私は単純に、前向きな変化を「成長」というのだと思う。

つまり自分が新たにできるようになったこと、習得した能力、外見や内面の変化をポジティブに捉えられるなら、それはその人にとって「成長」と呼べる。

この捉え方は人によって違うので、ある人に起こった変化を「成長」と呼ぶかどうかは、捉える人次第ということになってしまう。

ゲームの腕前や競馬の予想が上達したことを「成長」と捉える人もいれば、娯楽に身をやつして堕落したと捉える人もいるかもしれない。

物は言いよう、考えようである。

 人間は日々変化している。

だから日々の変化を前向きに捉えられるなら、毎日「成長」することも可能である。

ポジティブな人が「成長」しやすい、「成長」することができる、と言える。

 

話を本題のブログ記事に戻して、仕事をする上での能力の「成長」、あるいは人間性の「成長」も同じことである。

コピー取りやお茶汲みにも「成長」を見出せる人はいるだろうし、出世したり上司のウケが良くなることを、処世術ばかり長けて俗化したと考える人もいるだろう。

「成長」しているかどうかは、本人や周囲がそれぞれの主観において判断することであって、実際に起こっているのは単なる変化と言える。

だからこのブログの著者のように、自身の変化をポジティブに受け止められなくなったとき、その人にとって「成長」は止まるのである。

この人が激務に耐えて励んでいたときは、きっと自分の変化を「成長」と捉えられていたはずだと思う。

その「成長」がまやかしだったかどうかはともかく、転職エージェントの一言が捉え方、価値観の変化を引き起こしたということだろう。

まぁその転職エージェントの言う「クセがついたら転職できない」という発想も、おかしな話ではあるが。

それこそ異質なものを受け入れない、自分の色に染めたがる日本企業的発想だと思う。

クセのついた人間が使えないのだとしたら、それはクセがついているからではなく、その人に新しいものを受け入れる素直さが足りないからである。

 

こう考えていくと、圧倒的「成長」ができる企業というものも存在しない。

もちろん「成長」しやすい企業は存在する。

「成長」は変化の一種なのだから、変化が多くて大きい企業は「成長」するきっかけが多いし、その大きさも時に破格になるだろう。

ベンチャーやスタートアップからの参画が、「成長」につながることが多いのはそのためである。

あるいは早期に大きな仕事を任せてくれる企業も、当人にとって大きな変化になるだろうから、大きな「成長」につながりやすい。

変化は心身に大きな負荷をかけるものなので、「成長」というのは苦痛を伴うことが多いが、それは本人が何を望んで何を望まないかの問題である。

「成長」同様、ポジティブな人なら苦痛を生みの苦しみくらいに思うことができるだろう。

 

私自身はまだまだ「成長」したい、レベルアップしたいと思っている。

ただ、実際に「成長」できている感覚は、今の会社に入ってからここ数年ない。

仕事は自分の持てるスキルをそのまま使ったり、少しアレンジして済んでしまうことが多い。

変化はしているし微量の「成長」もあるが、車や電気製品のマイナーチェンジのようなもので、「ちょっと便利になりました」、「燃費が数%良くなりました」みたいなものである。

それは自分が望んでいるような「成長」ではない。

しかし、どうなりたいのかというと、そのイメージも湧いてこない。

結局、昔からそうで、やりたいこともなりたい姿もないのである。

どこで何に全力投球したらいいのかわからない。

 

今のように鬱屈しているくらいがちょうどいいのかもしれない。

必要があれば全力を出すだろうし、そんな状況を迎えれば否が応でも「成長」を感じられるだろう。

でも、そういえば昔、「予想外」とか「危機」を求めていたことがあった。

そう考えると、鬱屈しているのは10年以上前から変わっていないということになる。

変化していないということは、「成長」していないということ。

失笑ものである。