異呆人

毒にも薬にもならない呟き

恥じらいの美学

絶対領域」という言葉をご存知だろうか。

某アニメにおける絶対不可侵のバリアのことではない。

そのバリアなら私も形成できる。

学生時代は「赤い六角形の干渉波が目視できる」と言われるほど、他者を寄せ付けないオーラを放っていたと言われていた。

そうではなく、いわゆる「萌え用語」に属する「絶対領域」である。

Wikipediaから引っ張ると、「ボトムスとソックスの間から微妙に覗く素肌の太ももの部分やそこに感じられるエロティシズム・「萌え」を表すものとして使用される」と記述されている。

「思わず目がいってしまうポイント」のことである。

概ね隠しているんだけれどもちょっと見えるところが、フェティシズム的には良いらしい。

まぁ私はニーソより生足の方が好きではある。

 

さて、私は足フェチなので、街を歩いていても自然と女性の生足に目がいってしまう。

女性の側からすればジロジロ見られるのは不躾なのだろうが、見られたくないなら隠せばいいだけで、見えているなら見られることに文句は言えないだろう。

歩いているときや立っているときのスラっとした足もいいが、短いスカートの女性が電車内で対面の席に座っているときの、あの無防備さと見えそうで見えない感じもいい。

もちろん私にも好みはあるので、誰から構わずチェックするわけではない。

明らかにいいお歳を召されていて、足にまでクスミが出ているのに露出されているのはいただけないと思う。

あと多少のムッチリ感は許せるが、基本的に私は太いのはダメである。

節制と自己管理が感じられない。

 

足にしろ、胸や肩、ウェストにしろ、女性の肌の見えているところというのは男性にとって気になるものである。

しかしながらそれは「見えている」のがいいのであって、「見せられている」のではロマンがない。

これは微妙なところだが、まったく違うところである。

これ見よがしにミニスカートやホットパンツを履いたりしている女性でも、本当に凝視されると嫌がるものである。

それはファッションとして肌が見える格好をしているだけであって、肌を見せているわけではないからだろう。

反対にまったくロマンがないものとしては、ヌーディストビーチが挙げられる。

あれだけ堂々と見せられてしまっては、たとえ全裸であってもファイティングポーズが取れる気がしない。

まだ水着を着ていた方がロマンがある。

 

これは単に全部見えているのか、一部が隠されているのかという問題だけではない。

それなら想像の余地があるかないか、ということが大切になるのだろう。

もちろん想像力を働かせる余地があることが大切なのだが、その想像力を働かせる上で大切なのがシチュエーションである。

つまり「ドヤっ」と見せられているのか、見せる意図はないが見えているのかでは、見る側の想像の仕方が変わってくると考えられる。

見せている女性は見られても恥ずかしくないのである。

逆に見られることを嫌がる女性は、見られることが恥ずかしいという感情が根底にはあるのである。

恥じらいがあるかないかが、肌が見えていることにロマンがあるかないかの違いだろう。

これは男性が、いわゆるビッチを嫌うのと同じ意味合いである。

 

「恥じらい」がなぜ重要なのか。

一つには、「特別感」が考えられる。

つまり平時は伏せられている、それも積極的に伏せられているものが、特別に見えていることがありがたみを増幅させるというわけである。

ご開帳という言葉が、仏教的にもエロ的にも端的にこの特別感を表している。

もう一つは、コミュニケーションが考えられる。

「はい、どうぞ」となると、「ありがとうございます」で終いである。

しかし「いや、ちょっと」となると、「そこをなんとか」という形でやり取りが続くわけである。

そのコミュニケーションそのものが満足感を与えるとともに、先の特別感を増幅させるのである。

 

いや、まぁもちろん、街で生足を拝んだからといって、そんな特別感やコミュニケーションに直接つながることはない。

だが「恥じらい」がある、そう見えるということは、そういったシチュエーションを複雑に絡み合わせて想像する余地が膨らむことを意味する。

それがつまり、対象たる女性の美しさを増すものだとも思うのである。

だから女性の皆さんは大いに恥ずかしがってほしいと思うし、見られたらちょっと嫌がるそぶりを見せてほしい。

そして、くれぐれもスカートの下にタイツや見せパンを履く行為は避けてほしい。