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異呆人

毒にも薬にもならない呟き

PPAPって面白いだろうか?

PPAPとやらが世界的に大ブームのようである。

普段、テレビもネットニュースも見ず、情報源を新聞に頼っている私には、こういったエンタメ情報は概ね周回遅れで回ってくる。

今回はそれでも知ったのが早い方だったと思う。

私はこれを実家に帰っていたときにテレビで初めて見た。

朝の情報番組で取り上げられていたくらいなので、知っている人からすれば今更のタイミングなのかもしれないが。

とりあえず見て抱いた感想は、「耳馴染みの良い曲だな」ということである。

面白いとは思わなかったが、子供が好きそうなネタだなとは思った。

 

私はお笑いは好きだが、それほど詳しくはない。

そもそもテレビがないので見る機会が少ない。

大阪出身なので、吉本新喜劇や上方漫才を見ながら育ってきた。

だからかわからないが、コントよりスタンダードな漫才が好きだ。

 ボケとツッコミが基本である。

というか、すべてのお笑いの根本原理というのは、この「ボケとツッコミ」にあると思う。

ボケてツッコんで笑いが生まれる。

ボケボケ漫才や一発芸などの一見ツッコミが不在に見える笑いは、オーディエンスが自分でツッコむ構造になっていると思う。

「なんでやねん!」、「おかしいやろ!」と心の中でツッコむからこそ笑えるのである。

だから予備知識がないとツッコめないネタや、どこにツッコんでいいのかわからないシュール過ぎるネタは笑えなかったりする。

あるいはオーディエンスを引かせてしまうようなネタも、ツッコミが機能しないがために笑えないのだと思う。

 

そのように考えると、あのピコ太郎のPPAPも私にとっては非常にツッコミづらい。

あの衣装とあの動きと意味不明な歌詞にツッコむべきところなのだろうが、もはやなんとツッコんだらいいかわからず、彼の歌とダンスを眺めて楽しむしかなくなる。

少し前に流行ったオリラジの「パーフェクトヒューマン」も同じだと思う。

耳馴染みは良いし、楽しいネタだとは思うが、面白いというのとは少し違う気がする。

それは、これまたどこにツッコんでいいかわからないからではないだろうか。

「PPAP」も「パーフェクトヒューマン」も「芸」ではあるし、「芸」としてはバランスが良いというか完成度が高いのだと思うが、「お笑い」は名乗れないし、名乗る必要もないと思う。

それらは歌とダンスで魅せる「芸」、あるいは「エンターテイメント」なのだろう。

彼らは芸人のだから、必ずしも「お笑い芸人」である必要はない。

「お笑い」という土俵で相撲を取って勝てないのなら、別の土俵に上がるという選択はビジネスとしては正しい。

むしろ「ボケとツッコミ」というお笑い文化が、日本という国の中でガラパゴス的に進化したものだと考えると、リズムネタのように細かいコンテクストを無視して直観に訴えかけるネタは、これからのグローバルスタンダードなのかもしれない。

そういう意味では、日本のお笑い文化というのは実に繊細だとも言える。

多くの共通認識を土台にして、初めて理解できるもの、笑えるものになるからである。

 

テレビを見なくなってから、久しくお笑いを見ていない。

久しぶりになんだか漫才が見たい。

でも、M1のような点数で序列をつけるものは御免である。

ネタの巧拙や優劣は間違いなくあるが、それを可視化して競わせることは、それそのものが笑えない舞台装置である。

笑えない舞台に笑いを乗せることがシュールだと見ることもできるが、やっぱり少し無理がある気がする。

何が言いたいかって、笑いというのはもっとおおらかなものだと思うのである。

あまりどちらが面白いかという視点で見るのではなく、面白いものを純粋に面白がるというのがいいのではないだろうか。

 

ちなみに関西人は「ボケとツッコミ」における自分の立ち位置を大事にすると言われるが、それで言えば私は純度100%のツッコミである。

学生の頃、「日本刀」と言われたツッコミの先輩がいたのに対して、私は「ハリセン」だと言われていた。

派手なツッコミで笑いは取るが誰も痛くない、ということらしい。

そう言ってもらえると実にありがたい。

おかげさまで、遠慮なく全力でツッコめる。