異呆人

毒にも薬にもならない呟き

ブログと小説、および創作に関する考察

最近、かなりの数のブログ記事を書き溜めしている。

理由はわからないが筆が運ぶ。

私は非常にインプットの多い人間で、無尽蔵に情報を取り入れては、その情報を自分の中で自動的に体系化してしまう。

インプットばかりしてアウトプットしないと、非常にフラストレーションが溜まる。

私がブログを書く目的は、語ることによるカタルシスである。

適切にアウトプットしていくことで、自分の中の澱を解消するために書いている。

だからブログ記事の執筆が進むということは、良好な精神状態を保つ上では非常に良い。

同じくらい書きかけの小説の執筆が進めばいいのにと思う。

 

私の場合、ブログはただの雑記であり、無造作なアウトプットである。

溜まった情報や思索の内容を、ただ単に吐き出す場である。

だからあまり深く考えずにつらつら書き進めることができる。

せいぜい少しだけヒネリを入れ、着地ができるだけ綺麗に決まるように配慮する程度である。

だからブログというのは私にとって、結果的に生み出されるものである。

過程こそが目的であり、記事というのはその結果の産物にすぎない。

小説の場合は少し違う。

書きたいことがぼんやり存在する。

そのぼんやりとしたものを形にしていく作業である。

これは思いついたことを書き連ねる作業とは根本的に異なる。

自分の表現したいものを具現化していく作業で、それを最適に表すためにストーリーを考えたり、言葉の表現を選んだりする。

吐き出すだけのブログと違って、思索を練りに練るので苦しむことが多い。

だから進まないとも言える。

 

小説もそうだし、私の場合は学生時代の論文もそうだったが、何かを生み出す作業というのは積み上げるものではなく、削り出す行為だなと思う。

何かの文章で、彫刻家が「形が先にあって、私はそれを掘り出しているだけだ」と言っているのを見た。

まさにそんな感じである。

彫刻家が材料の塊にぼんやりとした形を見、それを鑿で削り出していくように、私は書きたいものの全体像を朧げに捉え、それを文章にして推敲を重ねることで形にしていく。

だから推敲の時間がとても長い。

ブログならたくさん書けるのは、細かい表現に気を遣う必要がなく、推敲の時間が短いからである。

それはストーリーを少しずつ書き進めたり、小さな物語を組み合わせたり繋げたりする書き方とは根本的に異なる。

自分が表現したいものが先にある。

その形は朧げながらも決まっていて、そこに見える理想の形に少しでも近づけていくのである。

残念ながら技量が伴わず、いつも理想の形には程遠いものになってしまうので、途中で諦めてばかりだが。

論文も同じことで、明らかにしたいことが先にある。

それを適切に探求していくために方法を選び、思索を重ね、結論を導き出す。

 

どちらも楽しい作業ではあるが、うんうん唸って考えるだけ小説の方が苦しい。

それでも書くのが楽しいのはなぜだろう。

生み出す、作り出す、創作という行為の愉悦がどこから来るのかわからない。

しかし創作は人間に与えられた特別な能力であり、そこから来る愉悦は特別な感情だと思う。

そこには実益や意味はない。

あるのは生み出されたものの形だけである。

私たちはその生み出されたものを見て、自分の中の何がしかと繋げて解釈し、そこに自分にとっての新たな意味を付与する。

そういう点では、創作というのは発信者と受信者の一方通行なやり取りだと言える。

作った人の思惑と、それを受け取る側の解釈が違うことは往々にしてある。

しかしそれが芸術なのだと思う。

 

そう考えると、創作というのはコミュニケーションの一種なのかもしれない。

発する側と受ける側が直接にやり取りしないだけである。

創作物という媒体を介する分だけ、それは複雑になり多面的な魅力を持つ。

あるいは鏡のような機能もあるかもしれない。

作った側は作られたものを見て、自分の内面と向き合うことになる。

創作物を見る側も、それを見て創作者の思いを汲み取りながらも、同時に自己の解釈をそこに重ねることで、創作物を通して自分の内面と向き合うことになる。

創作に愉悦が付与されるのは、そういったコミュニケーションや内面的思索が人間にとって必要なものだからかもしれない。

そういった思索があったからこそ人の文明はここまで発達したし、本当の意味での存亡にかかわる事態を避けてこられたのかもしれない。

 

いつか自分が納得する小説が書けたらいいなと思う。

それはいつか来るかもしれないし、一生来ないかもしれない。

それができたから何になるわけでもないし、できなかったから何がダメになるわけでもない。

無理をしても、それは形だけを取り繕ったものになりそうに思う。

自然に生まれる感情と、そこから生まれる物語を大切にしたい。

ともかくまずはPCに向かうことからである。