異呆人

毒にも薬にもならない呟き

敷かれたレールの上

「敷かれたレール」という表現があるが、人生において、一体どれだけの人が敷かれたレールの上を歩いているだろうか。

あるいはどれだけの人が、敷かれたレールを外れているだろうか。

例えば今の日本において義務教育は中学校までだが、多くの人は大学まで卒業している。

少なくとも、高校は卒業している人がほとんどである。

そう考えると、高校・大学を出ていれば、すでに半ば敷かれたレールの上を歩いていると言えなくもない。

うちの末弟は今、中卒で働いているが、あの阿呆の方が世間様の多くの人よりよほど敷かれたレールを外れていると思う。

あるいは学校を卒業して無難に就職すれば敷かれたレールの上だろうか。

フリーターになれば、敷かれたレールを外れるのだろうか。

起業すれば、ブロガーになれば、ユーチューバーになれば、敷かれたレールを外れるのだろうか。

 

私は少し違うと思う。

人生における選択肢は色々ある。

もちろん限られてはいるが、住むところ、就く職業、家庭を持つか持たないか、などなど、たくさんの選択肢がある。

それらの何を選ぶか、あるいはどういう経緯で選ぶかによって、敷かれたレールを外れるのではない。

どういう基準で選ぶかという価値観の違いで、人は敷かれたレールを外れるのではないかと思う。

何を仕事としていようが、金を儲けるためにしているのであれば半ば同じである。

自分なりの哲学とか信念を持つことによってのみ、型にはまった人生から抜け出せるのではないかと思う。

 

私の高校の先輩で教師になった人がいる。

その人はあるスポーツがとても好きだった。

それは1人でもできるスポーツであるが、広大な場所を必要とした。

一生続けるには日常的に広大な場所を使用できることが必要である。

そこで思い付いたらしい、「教師になれば学校のグラウンドが付いてくる」と。

だから彼は教師になった。

教育大に入って、脇目も振らず一直線である。

その先輩の学力は進学校だった母校においてもトップクラスで、その気があれば旧帝大に進学できるレベルだったらしい。

ところが進路指導も親の希望もなんのそのである。

明らかに敷かれたレールから外れている。

 

世間的に見れば、立派に教師の職を務めているし、結婚して子供もいるし、順風満帆というか、わりと普通の人生である。

ただ私からすればアウトローである。

彼の人生はそのスポーツを中心に回っている。

人生における判断の価値基準が違う。

彼は純粋にそのスポーツを続けたいだけなのである。

 

起業家でも役者志望でもユーチューバーでも何でもいいが、彼らはそれをもって人生に何を求めたいのだろうと、よく思う。

世の中に新しいサービスや商品を提供したいと起業するならわかるが、会社に入ってこき使われる社畜になるのが嫌だから起業するというのはよくわからない。

社畜は生活のため、金のために仕事をするのである。

起業しても、金儲けのために事業を始めるのであれば社畜と変わらない。

それらは乗ってる列車こそ違えど、走っているレールは同じである。

金儲けという同じ方向を向いている。

別に金儲けが悪いわけではない。

私も金のため、生活のために仕事をしているし、多くの人がそうである。

ただ手段を変えただけでレールから外れた気になっている、多くの人と差別化できていると考えている人間がいるとすれば、浅はかだなぁと思う。

その先に何を見ているのか、どんな人生を生きてどんな人間として死ぬのか。

それが大切なことである。

 

自分が世の中の大きな流れ、価値観に取り込まれていることを自覚せずに、平凡を嫌いながら平凡を抜け出せない人間は残念である。

それは大きな意味で、敷かれたレールの上を歩き続ける人生である。

それは正解か不正解かとは違うし、楽か苦しいかともまた違う。

ただ「自分らしい人生」とやらを送りたいのであれば、周りと比べてどうだとか、社会的立ち位置がどうだとか、そんなことを考えるのはやめた方がいい。

そういったものを超越できれば、平凡なように見えても極めて「自分らしい」、レールを逸脱した人生が送れるだろう。

なんか最近の世の中、目立ちたいとか認められたいとかチヤホヤされたいとか金持ちになりたいとか、そんな理由や価値観で安易に「普通」をバカにする人間が多いなと感じる。

本当に「普通」じゃない人は、「普通」をバカにしたりしない。

案外、「普通」じゃないことに苦悩したりするものである。