異呆人

毒にも薬にもならない呟き

運命論

運命はあると思うかと聞かれたら、あると思うと私は答える。

起こる出来事はすべてあらかじめ決まっているという考え方は、非科学的だし非現実的ではある。

だから「あると思っている」というよりは、「あり得ると思っている」という方が正しい。

全面的に肯定はしないが、あってもおかしくないだろう。

幽霊や超常現象などには否定的だが、運命だけは別である。

別に「あなたと私は出会う運命だった」とか、ロマンチックなことが言いたいわけではない。

そこには私なりの理屈がある。

 

私は「宇宙は無限に膨張と収縮を繰り返している」という宇宙観を持っている。

大学生の頃に「宇宙論」という教養科目の授業を取った。

宇宙という未知で遠大なものに小さい頃からロマンを感じていたというのもあるし、他に面白そうな授業がなかったというのもある。

教員がもそもそ喋る人で、内容は面白いのに面白く感じられないという授業だった。

OHPを多用するので眠くなるのも難点だった。

しかしながらその授業で買わされた教科書がなかなか面白く、私は授業そっちのけでその教科書ばかり読んでいた。

そこに書かれていたのが先ほどの宇宙論である。

今の学問においてそれがどこまで正しいのかはわからない。

だがその時の私は、その理論に感銘を受けた。

さっきウィキペディアで調べてみたところ、サイクリック宇宙論というらしい。

 

宇宙というのはビッグバンによって生まれたと考えられている。

そこから膨張が始まり、膨張する過程で様々な物質が生まれた。

元素とかなんだとかもそうだし、そこから展開して考えれば、星やら生命やらもみんなそうである。

すべてはビッグバンを起点に生まれている。

この時の爆発後の膨張の仕方が少しでも違っていれば、今の宇宙ももっと違った形で存在していたと考えられている。

生命など全く存在しない宇宙もあり得たかもしれない。

 

だが私は思うのだ。

別の可能性などなかったのではないかと。

宇宙が膨張と収縮を繰り返すなら、それは全く同じ過程を辿って行われるのではないかと。

世界というのはビリヤードのようなものだと思うことがある。

ブレイクされた球があちこちに弾け飛び、それぞれに転がっていって、ぶつかり合ったりポケットに落ちたりする。

すべての人や物は、突かれた球のようにこの世界に現れ、自分の意思と見せかけて、様々な要因に意思決定を規定されて、決まった方向に転がり続けるしかないように思う。

 

人生では、何かがほんの少し違えば起こらなかった出来事や、出会わなかった人というのがたくさんある。

でもそのほんの少しが起こらない、あるいは逆に些細なきっかけが起こる理由は、たくさんの必然の糸が複雑に絡み合っているからだと思うのである。

それらの必然の糸をもし丹念に辿ることができたとすれば、私はすべてビッグバンのような創生の一点に集約するのではないかと思う。

ビリヤードの最初の一突き、それですべてがどの方向に転がるか、世界がすべて決まってしまうのではないだろうか。

そして宇宙が膨張と収縮を繰り返すなら、宇宙を生み出す最初のブレイクであるビッグバンは、全く同じ軌道でビリヤードの球を弾き出すように、世界を作り上げてしまうのではないだろうか。

と、学生の頃に大いにそんな妄想をした。

今でも半分くらい信じている。

 

同じ世界が繰り返されるかどうかはともかく、少なくとも私たちは自分の意思で物事を決定しているように見えても、いろんな要素に規定されてしまっている。

私たちの行動の理由の一つ一つには、その理由が発生する理由がある。

不意に意思を変えたとしても、その意思を変えた理由が存在するのである。

それは自分で決めているように見えて、自分以外の何かに影響されて決めている。

生まれ落ちる環境は選べない。

生まれたその瞬間から、私たちの選択肢は大きく制限されている。

生まれた子供に無限の可能性があるように見えても、その実、すでに選べるルートは決まっているのである。

その中から何を選ぶかは、どんな環境で育ったか、あるいは本人の能力などに規定される。

人生など、初めから決まっているようなものである。

 

だからどんなに努力しても、あるいは努力を放棄しても、そもそもその過程そのものが決められたものなのだから、結果も変わりようがない。

それが私の考える運命である。

結果論の運命論とも言える。

だからどうというわけではない。

それが事実だとしても、それを知ったことで変わるものは何もない。

私たちは運命を変えられない。

すべての物事は起こるべくして起こるのである。

 

だから人生において、後悔する必要はないのだ。

誰かが選んだ選択肢は、選ばざるを得なかった選択肢である。

それが誤った選択であったなら、それは誤るべくして誤ったものである。

あれこれ思い巡らす必要はない。

私たちに与えられているのは目の前の手札だけである。

山札の中身は決まっていて、札を引く順番も決まっているが、私たちにそれは知りようがない。

ベストを尽くすか、あるいは尽くせるかどうかも決まっている。

だからせめて後悔の気持ちを持たないで済むように、「きちんと考えた結果」と受け止められるように、毎日をしっかり考えて生きていきたいものだなと思う。