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異呆人

毒にも薬にもならない呟き

退屈が嫌い

仕事が暇だ。

基本的に私は出張しなければできる仕事が少ない。

経費の関係で出張量を自主規制しているので、事務所で時間を持て余している。

周りに声をかけてやることを分けてもらう、というか手伝っている。

基本的に営業畑を歩んできているので、もちろん営業活動が得意ではあるのだが、私の元々の適性自体はオールラウンダーなので、事務作業をさせても他人が目を見張るくらいの速度で処理できる。

「なんでも手伝えるし、なおかつ早い」と重宝されている。

私は現状を「守備的シフト」と公言している。

サッカーでいうと、FWがDFラインまで下がって守備に汗をかくようなものである。

個人的には私はMFだと思うので、2列目からボランチの位置まで下がっている程度だと思う。

 

別に暇を持て余していてもいいのだろうが、どうにも私はそれが耐えられない。

元来、じっとしているのが苦手なのだ。

泳ぎ回っていないと死ぬマグロほどではないが、できれば常に何かしていたい。

意味のある待機というか、待つこと自体が嫌いなわけではない。

退屈が、手持ち無沙汰なのが嫌いなのである。

のんびり過ごすのも好きだが、それは何もしないわけではなく、ゆったりしたペースで何かをしていたいというだけである。

退屈が悪いと言っているわけではない。

良し悪しの議論ではなく、好き嫌いのレベルの話である。

 

同じ会社の先輩などは、明らかに暇なときに何もしていない。

ぼーっと椅子に座っているか、何かをしていると見せかけてネットサーフィンをしている。

やることがないのであれば、別にそれでも構わないと思う。

私がそういう過ごし方が我慢できないだけだ。

何か自分にとって有益なことをしていたいと思う。

何が有益かはそのときどきによって違うし、人によっても違うと思うが、要は納得できればいいのである。

自分が今この時間を無駄にしているという感覚が、私に焦燥感のようなものをもたらす。

もしこの時間を何か別のことに充てていたなら、自分自身がもっと成長できるのではなかろうか。

そうしたら、もっと気持ち良く充実した人生が送れるのではなかろうか、という錯覚のようなものである。

実際にそうだとは限らない。

 

休みの日などは、たいてい手持ち無沙汰だったりする。

この1年ほどこそ、交際相手のためにあちこち出かけたりして休みを使っていたが、元々はすることを都度考えるくらいに暇を持て余していた。

ただやるべきことがないだけで、やりたいこと、やってみたいことはたくさんある。

人生は短い。

若くて体力のあるときなど、なお短い。

新潟にいた頃は1人でスノーボードに挑戦したりもしたし、あちこち旅行にも出かけた。

高速道路の料金が一律1000円になったときなど、新潟から福岡まで車で出かけたし、震災前に新潟から青森、岩手、宮城など、東北をぐるっと1周したこともある。

いずれも車中泊での強行軍である。

 

東京に出てきてからは、美術館に足繁く通うようになった。

美しいものが好きだ。

この世で一番価値のあるものは、美しさだと思っている。

美術品でも景色でも女性でも、あるいは人の内面や生き方でもいい。

その中でも美術館通いは手軽だ。

歴史に残るような名作を、わずか1000〜2000円で見ることができるのだ。

興味があるなら見に行かない手はない。

ゲームやカードゲームには目がないので、週末は秋葉原に通ったこともあった。

仲間ができ、フライデーナイトは朝までファミレスでカード三昧だったこともある。

 

やりたいことをしているという側面もあるが、半分は持て余す時間を潰すために何かをしているだけである。

おかげで飽きるのも早いし、やりたいことがやりたいことのまま棚上げになっているものもある。

人生そのものが、ある意味では壮大な暇つぶしだと思う。

与えられた時間を退屈せずにどう過ごすか。

有意義に過ごそうが、無為に過ごそうが、結果は死んで終い、同じである。

だから享楽に溺れて自己満足の限りを尽くす生き方も、一つの生き方かもしれない。

ただ、私はきっとそんな自分の人生に納得できないだろうなと思う。

別に道徳的に生きたいわけではないし、志高く生きたいわけではない。

良いものは認め、ダメなものはきっちり否定して、できるだけ自分の意志を通して生きていきたいだけである。

暇潰しも、時間が潰せれば何でもいいというものではないだろう。

楽しくて、充実感があって、達成感があって、なんぼである。

人生という暇潰しも、できるだけ退屈せずに楽しんで生きたいものである。