異呆人

毒にも薬にもならない呟き

長財布の呪術

数年前から長財布とコインケースを分けて使っている。

そんな様子を同僚や友人に見られるたび、「デキる男は違うなぁ」という冷やかしとも感嘆ともつかぬ発言を受ける。

私も昔はズボンのポケットに入るように2つ折りの財布を使っていた。

長財布とコインケースを分けたのは、スーツのジャケットを着るような仕事に転職し、ジャケットの内ポケットに財布をしまいたかったからである。

2つ折りだと取り出しづらいし、コインケースが一緒になった長財布だと、厚くなって内ポケットが膨れて不恰好である。

だから実用性を考えて長財布とコインケースに分けた。

ポイントカードの類は、別途カードケースを作って鞄に入れている。

 

しばらく前に、「長財布を使えばお金が貯まる」というような内容の本やコラムが流行った。

同僚や友人の発言は、多分にそれを意識したものであると考えられる。

私はその本は読んでいないし、特にその言説を気にしてもいなかった。

私のことをある程度知っている人たちなので、私がそんな言説を信じて長財布を使っているとは思われていないようである。

ただ逆に、「朱天さんが長財布を使っている」→「あの言説は本当なのか?やはりデキる男は長財布なのか?」と邪推する人がいて、それも迷惑な話だなと思っている。

ちなみに私はデキる男でも金持ちでもない。

「長財布を使えばお金が貯まる」という言説が眉唾であることを、身を持って証明している。

 

そんな私ではあるが、いくつか気をつけていることがある。

それは、お札の向きを揃えること、お札を財布に入れるときに端が折れないように気をつけること、お札の肖像の頭が入り口と反対方向を向くように入れること、である。

「そうすればお金が貯まる」という呪術的効用を信じているわけではない。

それは祖母の言いつけである。

もっと言うと、祖母の言いつけだから実行しているわけでも、祖母をリスペクトしているわけでもない。

孫を思ってアドバイスしてくれる祖母の気持ちに対する感謝を、言いつけを守ることによって表しているにすぎない。

 

「長財布を使えばお金が貯まる」なんて、本当かどうか少し考えれば小学生でもわかりそうなものである。

しかし、そういった「おまじない」あるいは「呪術」は世の中にたくさんあり、私たちの生活に深く根を張っている。

「迷信」と一蹴してしまうのも少し違う。

それが根拠のない「迷信」であるのなら、その「迷信」がはびこる社会的背景があるはずである。

私は「おまじない」あるいは「呪術」とは、「因果の超越的な記述」だと思っている。

原因と結果がそれらしく結びついているが、よく見ると論理が飛躍している。

これが「呪術」として成立するには、それらしく見えることが必要になる。

そしてそれらしく見える背景というのがあるのだと思っている。

長財布の件で言えば、「手軽にお金持ちになりたい」という世の中の潜在的欲求が、後ろに隠れているのである。

それは経済的格差が広がっているせいかもしれないし、しゃにむに働けば報われる社会でなくなっているせいかもしれない。

いずれにせよ「眉唾だよ」で片付けてしまうのでなく、もうちょっと考えてみても面白いのではないかと思う。

 

「呪術」ということで言えば、スポーツでもよく「ジンクス」が取り上げられる。

ものとしては同じである。

それこそ「某有名スポーツ選手はこんなジンクスを実行している」という話題が取り上げられることもあれば、「ジンクスなんて皆、科学的根拠のない迷信である」と一蹴されることもある。

まぁ確かに、因果関係はないかもしれない。

しかし最近は「ルーティン」という言葉で取り上げられることも増えている。

これはラグビーW杯の五郎丸選手の活躍で一躍有名になった。

「ルーティン」も「呪術」の一種である。

元は「こうすれば上手くいく」という飛躍した因果関係から始まっただろう。

しかしそれを繰り返すことで「いつもの流れ」になり、それを行うことでいつもの状態「平常心」を得ることができるのである。

自己暗示である。

「鰯の頭も信心から」とは、よく言ったものである。

 

つまり「長財布を使えばお金が貯まる」と信じ続けて使い続ければ、本当にお金が貯まることもあるかもしれないし、それとは別の形で何らかプラスの効用が現れるかもしれない。

でも、きっとそれは長財布のおかげでも何でもなく、結局は本人の努力が実っただけなのだと思う。

私もお金持ちになりたい。

できれば仕事をせずに暮らしていけるくらいのお金持ちになりたい。

ただし誰かの犠牲の上に成り立つような、人を食い物にして自分が潤うような生活は嫌だなと思う。

そんな綺麗ごともまた、「呪術」のように因果関係の飛躍した、非現実的な発想なのかもしれないなと思う今日この頃である。