異呆人

毒にも薬にもならない呟き

海に棲む魔物

彼女と海に行ってきた。

文字にすれば、とても甘美な響きである。

その魅了に抗えるものは少ないだろう。

しかし残念ながら、私は海が好きではない。

正確には、海で泳ぐことが好きではない。

学生時代は沖縄で4年間過ごしたが、海で泳いだのは2度だけである。

泳いだあと、全身が塩でべたつくのが嫌だ。

砂浜を歩いたドロドロの足で、サンダルを履かなければならないのが嫌だ。

海から上がったあとの始末が面倒くさい。

パラソルの下で昼寝をしているのなら構わないが、彼女と2人ならそういうわけにもいかないだろう。

 

しかし彼女のたっての願いとあれば、聞き入れないわけにもいかない。

私は毎年夏は公私に忙しいことが多く、去年もほとんど構ってあげられなかった。

夏が終わったとき、「夏らしいことをほとんどできなかった」と彼女は嘆いていた。

今年はその鬱憤を晴らすかのように、山にも登ったし花火も見に行った。

そして極めつけが海である。

私の好き嫌いなどは、この際脇に置いておくしかないだろう。

 

レンタカーを借りて、少し遠くの海水浴場まで行った。

夏休みのこの時期である。

渋滞にはまり、着くまでに4時間かかった。

しかしこのくらいで心を萎えさせるわけにはいかない。

せめて彼女の水着姿を拝んで、自分自身の夏の思い出としなければならない。

駐車場に車を止めて、着替えて浜辺に出た。

パラソルなどの一式はその場で借りた。

 

浜辺には水着姿の女性が山ほどいた。

海なのだから当たり前である。

普段なら大喜びするところだが、今回は彼女と来ているのである。

私は彼女を見ていなければならない。

これは何気に苦痛である。

もちろん彼女の水着姿は可愛い。

しかし、それとこれとは別問題である。

中にはたわわに実らせた2つの果実を、これ見よがしにぶら下げているものもいる。

実にけしからん。

 

これは魔物だなと、そのとき私は思った。

浜辺の妖精という言い方もあるが、これはもはや魔物である。

私は美しい声で船乗りを惑わすというセイレーンを思い浮かべた。

現代のセイレーンは歌声でなく、その肢体を持って男を惑わす。

見てはいけない。

そのまま海の藻屑にされてしまう。

 

そう思いながら横目で見ていると、どこからかやってきた2人組の男がナンパを始めた。

ゴキブリのように身体を黒光りさせた野犬である。

こいつらも魔物だなと思った。

さしずめ、地獄の番犬ケルベロスである。

セイレーンたちをその毒牙で地獄に引きずり込んでいくのだろう。

そんなことを妄想しながら眺めていた。

ナンパは失敗したようである。

 

その後、彼女と一緒に海でゆたゆたとたゆたっていた。

風が強くて波が荒かった。

波に揉まれながら、童心に返ってはしゃぐよう努めた。

天候は曇り時々晴れで、気温は30度を優に超えている。

しかしながら15分ほど波と戯れていると、寒くて身体が震えてきた。

風が強いので、濡れた身体から急速に体温が奪われる。

周りの若人には一切そんな感じは見受けられない。

私の身体がおかしいのだろうかと思った。

 

しかしよく見ると、彼女の唇も薄紫色に変色し始めていた。

「寒くはないよ」と言っていたが、身体は正直である。

彼女のことも心配だが、何より私自身が寒かった。

努力して堪えていたが、震えが止まらない。

完全に怪しいおじさんになっていた。

結局20分ほどで海から上がり、砂浜で昼寝していた。

朝も早かったし、ずっと運転していたので疲労も溜まっている。

その後、海に入っては陸で暖をとる、というインターバルを3度ほど繰り返した。

が、もうその辺りで限界だった。

真夏のビーチで寒さに凍えるという皮肉。

しかしこれはギャグでなく現実である。

まさかこんな見えない魔物も潜んでいようとは。

海というのは本当に恐ろしいところである。

 

帰り道、海に来て寒さに凍えるという現実を前に、彼女が「やっぱり私たちは海より山だね」と言った。

ちなみに彼女は山登りしたとき、標高1,000m程度の山で息も絶え絶えになっていた。

乗り越えるべきハードルは多い。

そういえば今日は山の日だったなと、そのとき思い出した。