異呆人

毒にも薬にもならない呟き

我慢することへの慣れ

歳をとって、我慢することに慣れたなと思う。

20代の頃は仕事で上司と言い争うことも平気で、筋が通らないと思ったことには躊躇なく反論した。

間違っていると思うことを見過ごせなかった。

今は知らないふり、見ないふりをすることもある。

沈黙することで状況を遣り過ごそうとすることがある。

それは大人になったと言えるかもしれないし、気力が衰えたと言えるかもしれない。

いや、両方だろう。


私自身がいろいろなものに諦めを感じていることもある。

「仕方ない」と自分を宥めることが増えた。

そう、世の中仕方ないことが多い。

まだ自分の頑張りでなんとかなると思っていた時期もあったが、そういう気持ちが挫かれることが続けばさすがに学習する。

その「これ以上は自分の力ではどうしようもない」というラインが、じりじりと後退し続けた結果、我慢することが増えたのだろう。

無力感とも言える。

ただ、それは10代の頃に感じていた人生に対する無力感のようなニヒリズムに含まれるものではなく、もっと現実的で切実な無力感である。

財布の中身を見て買い物を諦めるような、そんな感覚に近しい。


私自身は今、この状態を肯定的に受け止めるべきか、否定的に受け止めるべきか迷っている。

昔なら否定的に捉えただろうが、「仕方ない」ということは、それ以上も以下もない。

むしろ生きていく上では、いろんなことを我慢して、できるだけ波風立てないように生きていく方が楽なのではないかと思う。

無論、そうスパッと割り切れないから複雑な心中なのである。

そしていろいろ考えて、考えることに疲れてくる。


しかし、我慢することに慣れて良かったと思うことが一つある。

それは言い訳をすることが減ったことである。

私は自分の考える正しさに固執して、くどくどと理屈を並べる悪癖がある。

頭ではわかっているが、感情が昂ぶるとそんなことは忘れてしまう。

自分が間違っていないときもそうだし、間違っていたときも、どう考えていたのか理解してほしくなる。

それは言い訳である。


いろんなことを我慢するようになると、理不尽な状況や、あるいは自分が間違っていたことを受け入れるようになる。

それは心からではなく、ただ状況を遣り過ごそうとしているだけではあるのだが、私の心中はともかく、表面的にはプラスに働く。

平謝りができるようになった。

あるいは事態に沈黙することができるようになった。

それは社会的な生活を送る上では良いことだろう。


そうやって大きな衝撃は受け流し、小さな幸せを拾って生きていく。

そうなるのだろう。

でも何だか胸が痛い気もする。

その胸の痛みまで我慢する、あるいは感じなくなればいいのだろう。

もう少し時間がかかりそうだ。