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異呆人

毒にも薬にもならない呟き

みんな死んでしまえばいい

随想

若い頃、そう思ったことがある。

いろいろ悩んでいるとそう思うときが、誰しもとは言わないがあるのではないかと思う。

そのときは本気で全人類を抹殺したいだなんて思っているわけではなく、「みんな」というのはいわゆる「みんな」ではない。

誰でもない誰かであり、世の中とか社会とか、そんな漠然としたものだったりする。

つまり誰に向けるわけにもいかない怒りや不満が、「みんな」という極端な形で思考に上るだけである。

本当に自分以外の人間がいない世界なんて面白くない。

まぁ、若い頃はそんな世界も面白いかと思ったものだが。

 

私は世の中というのは理不尽なものだと思っている。

理不尽というのは、理路整然としていない、理屈に合わないということである。

例えば、明らかに悪い奴がいる。

でもそいつは何のお咎めもなく普通に生きている。

むしろ幸せそうだったりする。

また自分は悪くないのに、不始末を自分のせいにされることもある。

本当に責任のある人間は、明確に別にいたりする。

でも自分が謝らなければならない。

そして自分が謝ればとりあえず丸く収まったりする。

 

そんなわかりやすいことがなくてもいい。

世の中には幸せそうな人がたくさんいて、自分はそれを享受できていない(少なくともそれを感じられない)、それだけで十分なのだ。

ただ呪いたくなる。

うまくいかないもの、それは世の中という漠然としたものではなく、自分自身の人生なのだろうが。

それを本人の努力が足りないとか、やり方が悪いと言ってしまうことはたやすい。

そういう表現も漠然としている。

何をどれくらい頑張れば望んだものが手に入るのか。

そんな具体的な指標があるものは少ない。

というより、実際には「これをこれだけやれば上手くいく」なんてものがない。

「頑張れ」というスローガンだけが蔓延し、数少ない成功譚だけが美談として拡散される。

それが異常だと気づけたらまだ良いだろう。

それがあるべき姿だと信じ込まされた人たちは、救いようのない結末を迎えるかもしれない。

 

誰が悪いわけでもない。

本当は、みんなただ自分が幸せになりたいだけなのだろう。

ときどき誰かの幸せと誰かの幸せがぶつかって、どちらかが弾き飛ばされるだけなのかもしれない。

そうであったとしても、弾き飛ばされる側の人間には、それは受け入れられる理屈ではない。

だから呪いたくなる。

本当は弾き飛ばした奴が悪い奴ではないと薄々気づいているから、漠然としたものを呪いたくなる。

それは特定の誰かを呪うよりは健全なのかもしれない。

強い言葉は極端で、刺激が強いかもしれないが、海に向かって「バカヤロー!」と叫ぶのと同じようなものである。

 

「みんな死んでしまえばいい」と呪いたいだけ呪えばいいと思う。

思うだけなら勝手である。

実際に誰かを傷付けるようなことがなければ、誰にも責められることはない。

実際に誰かを傷付けた瞬間、そいつは弾き飛ばされた側から、弾き飛ばす側に回る。

それは「本当は悪い奴ではない」かもしれないが、法と倫理という社会一般の秩序の中では、十分に責めを負うべき悪人である。

やるなら頭の中か、仮想現実だけにしておいてほしい。

 

人を殺すことが悪いことなのは、法律でそう決められているからだと、私は思う。

実際に滅多なことでは人が人を殺さないのは、それが種や個人の存続にプラスに働かないからである。

人間は社会的な動物である。

弱いから群れる。

群れの数をみだりに減らす行為は、減らす側に良いことはほとんどない。

逆に良いことがあれば減らすのである。

口べらしが昔話の中だけの出来事だと思っている人がいるとすれば、それは物質的に恵まれた現代に生きているおかげである。

性善説とか倫理みたいな感情で、人は人を殺さないのではない。

生きるために泣きながら人を殺す人だっている。

 

言葉にしてしまえば、記号にしてしまえば、それで一つ自分の中から憎悪が消えるかもしれない。

そんな重たいものでなくても、不安や不満は風船に空気を詰めるように、見えないものを見える形にしてしまえば、それで楽になることはあるかもしれない。

誰かに話したっていい。

聞いてくれる人がいないなら、こんな駄文にでもしてしまえばいい。

やり場がないなら、真上に放り投げればいい。

きっとそれはまた自分のところに落ちてくる。

でも落ちてくるまでに、少しは状況が変わっているかもしれない。

変わっていなければ、また真上に放り投げろ。

繰り返していれば、いつか受け止められる時が来るかもしれない。