読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

異呆人

毒にも薬にもならない呟き

生死を超越する者 〜シシュポスの岩の話〜

生きる意味なんてない - 異呆人

死ぬということ - 異呆人

私の死生観はニヒリズムみたいなものだと思っている。

別に学問のように体系化された思想でもなければ、文壇で論陣を張るわけでもなく、一個人が生きていく上での信条というか、依り代のようなものであるので、あまり「〜主義」と位置付けたり、そんなことを言うつもりはない。

もっと簡単で気楽なものである。

あえて言うなら、私にとっての単なる理論武装、つまりは生きていく上で必要な鎧である。

丈夫にしすぎると動きにくい、身軽にしすぎると時に致命傷を負う。

そんな類のものである。

 

それはいろんな書物を読んだり自分で考えたりする中で育んできたもので、私自身は特定の思想に傾倒した覚えはない。

それでも一定の影響を受けたというか、自分が至った答えに近いなと思ったものはある。

それはカミュの「シーシュポスの神話」(私はなぜか「シシュポスの岩の話」と覚えている)である。

知っている人には有名な話だろうし、知らない人にはなんだそれという話だろう。

別にカミュの思想を紹介するわけではないので、ものすごくざっくりとあらすじだけ書いておく。

大切なのはカミュの思想ではなく、その寓話から読む人が何を汲み取るかである。

 

シーシュポスは神を欺いた罪で、山の麓から山頂まで岩を運ぶ罰を与えられる。

このシーンは有名な絵画もあるが、玉転しの玉でも想像してもらえればいい。

シーシュポスはやっとのことでその岩を山頂まで運ぶのだが、山頂に到達した途端、岩は反対側に転がり落ちてしまう。

そしてシーシュポスはまた麓から岩を運び直すことになる。

再びシーシュポスはやっとのことでその岩を山頂まで運ぶのだが、山頂に到達した途端、岩はまた反対側に転がり落ちてしまう。

そしてシーシュポスはまた麓から岩を運び直すことになる。

以下、この行為の無限ループが発生する。

お話としてはただそれだけである。

 

端的に言うと、人生も同じではないだろうか、ということである。

一生懸命勉強して、できるだけ良い学校に入って、できるだけ良い会社に入って、自分のやりたい仕事や趣味に精を出し、幸せな家庭を築いたりして、子供や孫に恵まれて、家族や友人に見守られながら死ぬ。

そう、最後は死ぬのである。

どれだけたくさんのものを高く積み上げたとしても、最後は岩が麓まで転がるように、死んでなかったことになるのである。

それはシーシュポスのように山頂まで岩を運べず、途中で力尽きても同じである。

岩が麓まで転がり落ちて元に戻るという結果には変わりはない。

どんな善人もどんな悪人も、富める者も貧しき者も、死ねばそれまで、本人にとっては何も残らない。

 

残される家族などにとっては、残るものもあるだろう。

ただそれは死んだ本人、残した本人の感知しようのないものである。

たくさん残した財産を子供たちが分け合って幸せに暮らしていようと、それを奪い合う骨肉の争いを繰り広げていようと、わかりようはないのである。

もっと言えば、地球や宇宙にだって寿命はある。

人類の手の届く範囲に、永劫に続くものはないと思われる。

一人一人の人生もそうだし、人類の存続や地球環境を守ることにも、もっと長い目で見れば何の意味もない。

シーシュポスが運んだ岩と同じで、最後は底まで転げ落ちる。

いずれはすべて無に帰るものである。

 

だからどんな生き方をしたって同じだと、絶望したり、自暴自棄になることはたやすい。

まぁ人の人生になぞらえるなら、私たちが見ることができるのは、せいぜい最初の1回、せっかく山頂に運んだ岩が転がり落ち始めるのを眺めるところくらいまでだろう。

だからこんなわけのわからないことを考えずに生きていくこともまた、たやすい。

ただ間違いないのは、私たちが岩を山頂まで運ばされる宿命を負っているということである。

途中で岩を投げ捨てるのもアリである。

シーシュポスのように自分なりの山頂まで運んでいくのもいい。

しかし、岩を運ぶという宿命を避けることはできない。

人は産み落とされたその時から岩を与えられ、山頂に運ぶことを命ぜられる。

 

シーシュポスが与えられたのは罰であるからして、途中で投げ出すことができなかった仕組みだったと思われる。

つまり彼は自らの意思で、休まずにその苦行を繰り返したのではないだろう。

ただ、運んだ岩が転がり落ちるのをわかっていて、それを再び山頂まで運ぶシーシュポスの姿に、一つの理想の生き方を見ることはできると思う。

それはいずれ無に帰るとわかっている人生をどう生きるか、無意味な人生をどう生きるかという問いに対する答えである。

岩がなかったことにすることはできない。

また岩が山頂から転がり落ちるのを防ぐ手立てはない。

 

ならば、黙って岩を山頂まで運ぶだけである。

人生の無意味さや不条理を嘆いても仕方がない。

その運命を受け入れ、淡々と岩を運べばいい。

何のために生きるかという人生の意味を、岩を運ぶ意味を自分なりに見つけるのもいい。

しかし何かのために生きる人生は、その意味や動機が失われるリスクを孕む。

それに岩は最後は転がり落ちる。

なんせ、究極的には生きる意味などない。

だから「何のために生きるか」ではなく、「どう生きるか」が大切なのだと思う。

その行為の虚無的な結末を知った上で、それでも岩を運び続けることが大切なのだと思う。

 

少し話は逸れるが、私はシーシュポスが岩を運び続けるような生き方が、生死を超越した生き方だと思っている。

つまり、生きることや死ぬことに囚われない境地、ということである。

仏教の悟りの境地のようなものである。

人生が無意味であることを心から理解できれば、生に対する執着は捨てられる。

ただ、生に対する執着を捨てるということは、死に片足を突っ込んでいるようなものである。

ともすれば、死ぬということに心が振れやすくなる。

人生が無意味であることを心から理解した上で、なお生きるという宿命を受け入れることは、生きるということも死ぬということも厭わない、一つの理想の体現ではないかと思っている。

シーシュポスが運んだ岩の結末を知りながら、なお力強く山頂まで岩を運び続けているのなら、それはまさに生死を超越した者、超人だと言えると思う。

 

日本にだって「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し」と残した人がいる。

私も心からそう思い、生きるということをありのままに受け入れて生きていきたいと思う。

楽しいことばかりを求めるのではなく、かといって、苦しみに砂を噛むように生きるのでもない。

人生の喜びも悲しみも、川の流れの一時の表情のようなものだと心得て、すべてを引き受けて生きていきたい。

そんな人生の何が楽しいのかと言われれば、特段楽しみに満ちているわけではないと思うし、幸せかと言われてもどうだろうと思う。

でも人生において楽しいことや幸せなことが至上ではない。

それは人生の淵を覗いたことがあれば、誰しも知っていることだろう。

 

さて、岩を山頂に運ぶように、飯を食っていくために明日も黙々と働きますかね。