異呆人

毒にも薬にもならない呟き

戦って戦って戦って死にたい

 いつも不安全燃焼な気がしている。

 自分の能力をフルに発揮する機会なんて人生でそうはないのだろうが、これほど何か持て余す感じがするのも気持ち悪い。

 これこそ自分の進む道だと思えるものがないことは、自分にとって最も大きな懸案であり続けている。

 最近はすっかり諦めているくらいだ。

 いや、まあこの手の問題は諦めようと思って簡単に諦められるものでないことが難しいのだが。

 

昔は陸上競技に力を入れていた。

才能がないことは、中学生くらいでとっくに気付いていた。

試合で勝てないとか、そんなレベルですらない。

同じ学校の、明らかにサボっていて自分よりも練習量の少ない相手にも勝てない。

陸上競技だってものすごくレベルが上がればレースマネジメントの必要性が出てくるが、一介の選手では力の差がすべてである。

テクニックなど存在しない、力と力のぶつかり合いだ。

だから実力差をひっくり返すことは容易ではない。

 

それでも私が競技を続けたのにはいろいろな理由があるが、逆に力がすべてだったからでもある。

陸上競技の長距離において、調子の良し悪しはあっても、実力を発揮できないということはほとんどないと思う。

足が、手が、動かなくなればそこまでだ。

とても正直で、誤魔化しの効かないスポーツである。

だから、限界ギリギリまで力を出し尽くせる。

人生において、そんなシーンはなかなかない。

環境や運の要素がどこにでもある。

気がつけば何もできないまま撤退に追い込まれることもある。

ただただ性根の1mmまで燃やし尽くすような機会はない。

そこに魅せられたのだと思う。

もうそこまで走ることに求めることは、何年もしていないが。

 

小さな喜びや楽しみを大切にしながら、平穏無事に暮らしていきたいと願う。

その一方で、血沸き肉踊るような戦いの場を求める自分もいる。

矛盾していると思う。

どちらが真実かとか、正しいかとか、どうでもよくなってきている。

たぶん安寧を求めるのが理性で、闘争を求めるのが本能だろう。

どちらも私の一部で、そんな相反を許容できるくらいには、私も熟れているし膿んでいる。

 

戦って戦って戦って死にたい。

そんな思いが消えない。

仁王立ちで死ぬ弁慶のように、矢は尽き刃折れてなお、立ち続けて死ねたら本望だろう。

それは実際の戦場で暴れ回りたいということとは違う。

世の中に、悪一辺倒の明確な敵など存在しない。

あるのはイデオロギーの違いで、結局は勝ったものが正義のような世界である。

誰かを倒すというより、何か大義を成すための戦いに殉じたい。

 

そんな妄想をする。

もちろん、そんな機会はない。

自分が動かないだけだということもある。

ただ行動すれば何かが変わるとは限らない。

生き残った者は、自分が生き残ったことをもって自身の正当性を主張する。

生き残れなかった数多の屍の上に彼らが立っているという事実は、彼らの成した功績の輝きの影に隠れる。

イチローになれなかった野球少年がどれだけいるだろう。

だからこそ、イチローは特異で素晴らしいのだ。

イチローになるために突っ走るのは勝手だが、なれなかったときのその後の人生は自分で歩まなければならない。

横で囃し立てる誰かは、責任を取ってはくれない。

 

時に本能に突き動かされることはあっても、できるだけ静かに生きていこうと思う。

本当に戦わなければならない時が私に来るのなら、そのときは目の前に嫌でもボールが転がってくるだろう。

いつそんなときが来てもいいように準備運動だけしておこうと思う。