異呆人

毒にも薬にもならない呟き

死にたいという気持ちはどうすれば消えるか?

私は中学生のある時期からずっと死にたいという気持ちを抱えている。

それは何か目の前に辛いことがあり、そこから死ぬことによって逃げ出したいというのとは違う。

生きていることがめんどくさい、という感覚に近い。

めんどくさいだけなので、積極的に死ぬ気にはなれない。

もしかしたら、そんなめんどくささが吹き飛ぶ素晴らしい何かが、これからの人生で待っていないとも限らないし。

その一抹の希望が捨てられないことが女々しいとも言える。

 

人間は生物なので、何事もなければ生き続けるように設計されている。

心臓の筋肉は不随意筋である。

だが生きていくために必要なことは多い。

飯を食う必要がある。

社会で飯を食っていくためには、金を稼がないといけない。

金を稼ぐために仕事をする。

そのために多大な労力を費やし、多大なストレスを負う。

そのプロセスが楽にできる人は恵まれている。

そのプロセスを苦と感じない人も恵まれている。

生きていけるだけで幸せだなどという台詞は、明日をも知れぬ戦争地帯に生きているのでない限り、生きることに困らない人間の安全圏からの発言だと思う。

 

よく晴れた日、外に出て空気を大きく吸い込むと、幸せを感じる。

そして同時に、この一瞬のうちに死ぬことができたらどれほど素晴らしいかと夢想する。

そんな日々を繰り返してきた。

死は安息ではない。

救済でもない。

その人にとっての世界の終焉であり、絶無である。

絶無であるから救われることもあるわけだが、死そのものには生きていることと同様に意味はない。

私は絶無こそ完全に最も近いものではないかと思っている。

つまり人は死んでその人でなくなり、同時に完全なものになれる。

 

だから死にたいというわけではなく、繰り返すがめんどくさいからである。

生き続けて手に入れたいものが思い浮かばない。

だから労苦と引き換えに私が得られるものは限りなく少ない。

割に合わないなと思う。

実は彼女と交際を始めたとき、自分の中の死にたい気持ちがなくなるのではないかと期待した。

彼女を大切にしたいと思っている。

大切なもの、守るべきものがあれば変わるかと思ったが、私の中の死にたい気持ちは消えない。

簡単に死ぬわけにはいかないという責任感のようなものは芽生えたが、それは重荷になり、重荷にであるが故にそれから解放されたい、つまり死にたいという気持ちに繋がる。

そういうことがわかった。

それも一つの収穫かもしれない。

 

常に虚しさを抱えているような感覚がある。

自分の中に穴が空いているような感覚がある。

いろんな人やものに触れ、その穴を埋めようと努力してきたつもりだが、一向に満たされる気配がない。

何が足りないのかわからない。

もしかしたら私にとっての人生とは、それを探し続ける旅のようなものかもしれない。

そしてそれはきっと見つからないのだろう。

きっと私はこの死にたいという気持ちを終生抱えて生きていくのだろう。

そんな確信にも似た予感がしている。

しかしながらいつも考えるのだが、人は現状では100年も生きられない。

束の間の生をゆるりと過ごし、そのときが来るのを待てばいいだけの話である。

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