異呆人

毒にも薬にもならない呟き

努力は実るとは限らない

「努力は必ず実る」的なフレーズが嫌いである。

「努力した分、返ってくる」というのも受け付けない。

「思えば叶う」とか、「善行は返ってくる」というようなものもダメだ。

一部の人には不快かもしれないが、好き嫌いのレベルで嫌いなのであって、良いとか悪いとか、効果があるとかないとかを言っているのではない。

 

何かに打ち込んだ経験のある人なら、多くは自分の限界という天井にぶち当たったことがあると思う。

それは才能だったり境遇だったり様々だろうが、己の力ではどうにもできないという共通点がある。

どうにもできないというのは、何をやってもどうにもできないということである。

「そんなときはこうすれば好転する」という、うまい話はない。

そんなものは詐欺か詭弁である。

本気でそんなことを言う人間は、努力をしたことがないのではないかと疑ってしまう。

 

人間は平等には作られていない。

人類平等は理想であり理念であって、現実ではない。

つまるところ天分がある。

分をわきまえると言うと卑下した言い方に聞こえるかもしれないが、身の丈に合った(欲を言えば身の丈より少し高いくらいの)努力をすればいいのだ。

皆がヒーローでもお姫様でもない。

自分の人生の主役は自分自身だし、私は個のレベルにおいては自身の存在は世界の存在と等しいと考えるが、客観的世界においては誰もが世界の部品にしか過ぎない。

あなたが主役でいられるのは、あなたの人生という本の中だけの話で、それはそのまま世界に引っ張り出せない理屈だ。

 

別に努力が必要ないと言っている訳ではない。

むしろ努力は必要である。

努力して初めて事はなし得る。

宝クジが買わないと当たらないのと同じだ。

つまり買えば当たるというわけではない。

宝クジのように大半の人にとって無駄になる努力も沢山あるし、もっと割りの良い努力も沢山ある。

かける時間や労力も様々だし、完全に無駄になるかもまた様々だ。

自分がどうありたいかという希望と、何が効果的で効率的で実現可能なのかという現実との間でバランスを取ることになる。

 

何人かに1人はヒーローになれることもある。

それは一面的だし、短期的かもしれないが。

宝クジが何処かの誰かには当たっているのと同じである。

それは誰もが同じやり方で同じ結果を得られるということを意味しない。

それは宝クジに当選した人が買った売り場で、他の人も真似して買うのと同じである。

私はこうやって成功したという体験談は、読み物として楽しむ分にはいいし、部分的に参考になることもあるかもしれないが、それは何かを保証するものではない。

私も私もと同じやり方を真似ることは、何処かの誰かが作ったねずみ捕りに自分から掛かりに行って、貪欲なる者を利することに終わる。

 

リスクを取って挑むことも重要だが、それを賛美し過ぎるのも如何だろうか。

世界には、自分の持ち場を守り、平凡でも平穏に幸せに生きている人たちが沢山いる。

彼らもまた、同様に賞賛されるべきヒーローである。

村人Aは誰にでも務まるかもしれないが、村人Aがいて初めて成立する話もある。

村人Aとして素晴らしい演技をすればいい。

自分がなぜ村人Aなのかというのは、不毛な考えである。

世界という劇場では、不条理に役柄が割り当てられる。

 

努力は実らないこともある。

報われない行いもある。

だから何もしないという訳にもいかない。

夢や希望には届かない物語がある。

掬おうとした手の指の間からこぼれ落ちる物語がある。

自分が生きているのはそんな物語かもしれない。

現実を受け入れて初めて、見える世界もある。