読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

異呆人

毒にも薬にもならない呟き

良く見られたいという思い

人には承認欲求がある。

それが大きいか小さいかは人それぞれだが。

だから誰しも人からどう思われているか気になるものだし、できれば良く見られたいと思うものである。

だから「他人の目なんて気にするな」というのは部分的には正しいが、そもそも無理がある。

「私は他人の目なんて気にしない」という人も、それは程度の問題だと思うし、行き過ぎれば「他人の目を気にしないゴーイングマイウェイの私カッコイイ」となり、それは結局他人の目を気にしているか、自分に酔っているだけとなる。

 

そもそも他人の目を気にしてほしいくらいの人が世の中には沢山いる。

「他人の目を気にしない」ことを肯定し過ぎると、そういう輩を助長する。

そういう輩に限って、「それは程度の問題だよ」という機微を理解しない。

良く見られたいと思うことは大切でもある。

(これも程度が問題)

嫌われる勇気は必要だが、時と場合による。

ほとんどの自己啓発本に対して私は批判的だが、それは万能の利器ではないからである。

そうでないことを理解して一助とするなら良いのだが、持ち上げ過ぎて万能だと誤解する人もいる。

これは宣伝する側の出版社も悪いと思う。

どんな武器も時と場合と人と使い方を選ぶ。

効果もじゃんけんのようなものである。

世の中の価値はすべて相対的だというのが、私のスタンスでもある。

 

私はSNSも使っている。

見栄えの良い写真も使う。

どうせ載せるなら、状況をよく説明した良く見える写真がいい。

そういった投稿の方が周りからの反応も良い。

コメントが付けば、それに対してリプライする。

そうやってコミュニケーションを取るのがSNSの機能であり目的である。

たまに見栄えの良い写真を沢山上げる人を揶揄して、「リア充」と言う声を聞く。

批判というより、ほぼ嫉妬である。

特に匿名性の低いFacebookなどのSNSは、そういったリア充が使うSNSなのである。

批判自体がナンセンスだと思う。

嫌なら見なければいい。

 

しかし良く見えるからといって、実際に本人が幸福であるとは限らない。

外から見える部分というのは、それ以上の意味はない。

良く見られることで自己の承認欲求は満たしてくれるかもしれないが、人生というのはそれがすべてではない。

むしろ見えない部分の方が多い。

それは本人にしか評価しようがない。

口や文章では何とでも言えても、実態は自分が一番よくわかっているはずである。

だから良く見える努力というのは、想像以上に実にならないものが多いのではないだろうか。

そこに必要以上に労力を費やすことには疑問を感じる。

 

逆に見る側からすれば、相手の見かけや話に対して、必要以上に気にしないことが大切である。

端的に言えば、人と比べても仕方がない。

他人の良く見せる努力など、さらっと流しておけばいい。

そんなものは、自分が生きる上で何の参考にもならない。

自分にとって必要なものは、置かれた状況によって異なるし、その複雑な状況の中にある自身にしかわからない。

 

誰が何で儲けただとか、すごく良い生活をしているだとか、友人が沢山いて楽しそうだとか、いろんなことを気にする人がいるものである。

そんなことを気にしたって、自分が同じようになれるわけでもないのに。

自分なりの人生、自分なりの幸せを見つければいいのだ。

それが自分にとって本当に良いものなら、無理に良く見せようとしなくても、自分自身の輝きから良く見られるはずである。