異呆人

毒にも薬にもならない呟き

人間的な強さと弱さと

強い人間になりたかった。

それは力が強い人間というよりは、精神的に強い人間というものだった。

どんなときでも凛と立っていられる人間。

何者にも依らず二本の足のみで立つ人間になりたかった。

借り物の武器で戦っていた私は、その脆弱なることを知って、強くそう願った。

私が目指したのは、一人でも強く生きられる人間だった。

 

特にそのとき受けた傷が大きかったからだろう。

強くあるためには失うものがあってはならないと考えた。

失うものがあれば恐れを感じる。

持たざる者であることが、強くあるために必要だと考えた。

それは人であれ物であれ形のない信仰のようなものであれ、拠り所のあることは強さであると同時に弱さにもなり得ると思った。

スタンドアローンであってこそ、真に強いと言えると思った。

 

実際に私は、その考えに近い形で生きてきた。

強い人間だと言われることも多かった。

自分自身の強さを感じることも多かった。

だがそれが本当の強さかと言えば、そうなってみてやはり違うと思う。

それは強さというものの本質を見誤っていると感じる。

 

強さとはどこまでいっても相対的なものである。

比較する対象があって初めて、強さと弱さが存在する。

あるいは関係性のようなものだと思ってもいい。

主体が2つあって、その間に発生する価値観である。

だからどんな場面においても発揮される、絶対的な強さなど存在しない。

 

そしてまた、強さとは多面的なものである。

あるとき、ある場面においては強くても、それが逆に弱さに繋がる局面も起こり得る。

もちろん、その局面の数には偏りがあるから、5つの場面で強くて3つの場面で弱いものもあれば、1つの場面で強くて7つの場面で弱いものもある。

だから強さとはそのものが価値ではなく、それがある場面において価値を生み得るというだけである。

 

1人で生きる強さが価値を生む場面は多い。

だから1人で生きる強さより、多くの人と協調できることの方が強いという主張には、個人的には疑問を感じる。

ただ実際に1人で生きる強さが弱みに変わるときもある。

私もやや協調性に欠けるし、例えば人を育てることが苦手だと感じる。

それでも自分が望んだ姿であるからそれを後悔しないし、逆に強みを生かす生き方をすればいいのである。

 

そして行き着くところまで行けば、最早強いとか弱いとかどうでもよくなる。

それは所詮形の違いである。

レベル99まで行けば、もうどうしようもないのだ。

強さの行き着く先は、己の限界を知ることである。

それは弱さを知ることだという、矛盾に見えるような結論である。

それは強さと弱さが相対的で多面的であるということに繋がる。

 

強い人間になりたいとか、こんな人間が強い人間だと言っているうちは、まだまだだということだろう。

強さ弱さの綯い交ぜになったカオスで、自己矛盾も含めてすべて受け入れてからが、自分の人間的な強さ弱さ、価値は何かを問うスタートラインだと思う。