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異呆人

毒にも薬にもならない呟き

幸せって何だろう?

随想

幸せとは何か?

誰しも考えたことがあると思う。

いや、考えたことがない人もいるか。

だが少なくとも、幸せになりたいと思っている人は多い。

そして幸せを感じるのに幸せを定義する必要はないが、幸せを追い求めるなら、それがどんなものか把握していないと難しい。

 

どんなときに幸せを感じるかは人によって違う。

だが幸せを感じているときには、共通することがある。

それは快を感じているということである。

というより、快=幸せと言ってもいいと思う。

快と不快は喜怒哀楽より原初的な感情である。

言葉を解さない赤ん坊に喜怒哀楽はないが、快と不快はあるので笑うことと泣くことでそれをアピールすることができる。

言葉を得て初めて、人は快と不快を細分化して複雑な感情を形成する。

だから物凄くざっくりと分ければ、感情なんて快と不快のどちらかに分けられる。

 

もし快が幸せであるなら、幸せとは感情だと言える。

湧いては消えるもので、確固とした状態ではない。

だから私は幸せな瞬間はあっても、幸せな状態はないと思っている。

つまり幸せをたくさん感じたいなら、快という感情が発生する瞬間を増やせばいい。

また幸せが感情であるなら、大きさの違いはあっても質の違いはない。

大きな幸せと小さな幸せはあっても、高次の幸せと低次な幸せはない。

幸せなブタと不幸なソクラテスをして不幸なソクラテスを持ち上げるのは、そうあってほしいと考える人間の願望である。

実際に、ブタとソクラテスになって考えてみれば明らかではないだろうか。

幸せとはエゴイスティックで、どこまでいっても主観的なものなのである。

 

まぁ生物は慣れるので、同じ刺激で幸せを感じ続けるのは難しい。

快を感じる瞬間を増やして、幸せを増やすことには限界がある。

そもそもある程度の継続性はあっても、基本的に幸せは瞬間なのだからすぐに消える。

感情なので、突き詰めていえばホルモンの分泌がどうだとかいう議論になってくるのだろう。

脳内麻薬の量で幸せが変わるなら、ある意味ドラッグと変わらない。

 

私は幸せを求めない。

そんな一瞬の感情が、血眼になって追い求めるべきものとは思えない。

例えば、美味しいものを食べると幸せを感じられる。

だが私は、幸せになるために美味しいものを食べたりはしない。

美味しいものを食べたいから、美味しいものを食べるのである。

「幸せ」という漠然としたものを追いかけていっても、その希望が抽象的であればあるほど、現実と理想のギャップに悩まされることになる。

漠然と「幸せになりたい」ではなく、もっと具体的にこうありたいという目的を見据えて努力したとき、そこに至るまでの過程と結果に、少しばかり幸せがついて来ればいいのではないだろうか。

 

金があれば幸せだと思うなら、努力して金を稼ぐのも一つの方法である。

だが金で何を買えば幸せなのか、それくらい具体的に将来の自分をイメージできなければ、結局金を稼いでも幸せになんてなれない。

例えば、幸せになるために結婚したいという人がいる。

だが籍を入れるという行為を済ませれば幸せだという人はいないだろう。

求めているもの結婚という形でなく、想いを寄せ合えるパートナーとの生活であるはずだ。

そのために必要なことを具体的に考えていけばいい。

人生は死ぬ瞬間まで終わりではない。

幸せな瞬間をいくら重ねればゴール、という訳ではない。

だからこそ一瞬一瞬の幸せという感情に惑わされず、生きることの本質を見定めていかなければならない。

 

幸も不幸も自分の中で湧き上がる感情としてありのままを受け入れられれば、それに振り回されたりはしない。

むしろ幸せかどうかなんて、どうでもよくなってくるはずである。

「幸せになる方法」的な書籍を書店で見るにつけ、何だか残念な気持ちになる。

そんなものに頼らなければ幸せを見つけられない人にも、そんな人を食いものにする人がいることにも。