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異呆人

毒にも薬にもならない呟き

なりたい自分になり、代償を払う

中学生の頃の、とても嫌な思い出がある。

それは私の良い意味では優しさ、悪い意味ではお人好しが引き起こしたものだった。

今なら大したことはなかったように思えるが、当時の私には価値観がひっくり返るような出来事だった。

正義が勝つわけではないと知ったし、日頃は道徳を語る大人も、いざとなれば道徳より現実を説くと知った。

何より、何かが起こっても誰も助けてくれない、最後に頼りになるのは自分だけだと知った。

ただ強くなりたいと思った。

身体的に強いだけでなく、精神的に強く。

 

恐怖に足がすくむ感覚が、その苦さと共に鮮烈に残っている。

だからだろう、どんな場面においても感情に流されず、冷静に落ち着いて状況判断できる人間になりたいと思った。

感情が、優しさが邪魔だと思った。

だから私は冷静さを求めた。

そしてそのために、感情を捨てることに決めた。

できるだけ笑わないようにした。

できるだけ驚かないようにした。

それは幼稚な行為だったが、意外に効果的でもあった。

臥薪嘗胆とは言わないが、苦い記憶を振り返りながらそれを2年、3年と続けたとき、冷静さと極端なまでの落ち着きは私に定着した。

私はなりたかった自分になれた。

 

今、私と付き合いのある人は、冷静で落ち着いた私しか知らない人ばかりである。

あまりの冷静さに、ほとんどネタにさえされている。

実はその裏に、事情のあることを知る人はいない。

知ってほしいとも思わない。

私にとっては、恥ずかしい思い出でもある。

 

先に述べたように、私は冷静さと引き換えに感情を捨てた。

もちろん全部は捨てられないが、半分以下くらいにはなったと思う。

笑うことは減ったし、そもそも笑うほどおかしいと感じることも減った。

寂しさを感じることもなくなり、悲しみや怒りも感じづらくなった。

困ったことに、喜びの感情も減った。

嬉しいと思わなくなったため、喜びをどう表現していいかわからなくなった。

そして、いわゆる恋愛感情もなくなった。

私の青春時代に恋の思い出はない。

 

「なりたい自分になる」というポジティブなキャッチフレーズを見るたび、私は自分のしてきたことを思って、少しネガティヴな気分になる。

または「こんな性格になれたら」と、自分の性格の欠点をあげつらう人に会うたびに思い出す。

努力をすれば性格を変えることは可能である。

ただ、そのために失うものもあるかもしれない。

その人が欠点と思う自己の裏側には、同じくらいの長所が隠れているかもしれない。

だから無理になりたい自分になる必要はないのではないか。

一昨年流行ったアナ雪ではないが、ありのままの自分を肯定する道を探してもいいのではないか。

 

私自身は後悔はしていない。

例え私がタイムリープできたとしても、きっと同じ場面で同じことを繰り返し、同じ自分になりたいと願うはずだ。

だからこれが私の人生だと思っている。

最近、大人になって覚えた一番大切なことは、受け入れるということではないかと思い始めている。

それは諦めを隣に従えてはいるが、きっと酸いも甘いも噛み締めた先の答えだろう。

それでいいと思えるなら、それに越したことはない。