異呆人

毒にも薬にもならない呟き

孤立と孤独

人は独りではないと言われたりする。

あるいは一人では生きていけないと。

それはその通りで、今の世の中、誰とも接点を持たずに生きていくことはかなり難しい。

学生の間とか、親が健在で一人引き篭もっている間とかなら割と可能かもしれないが、それは期間限定の現実逃避である。

社会に放り出されたら、嫌でも人と関わる羽目になる。

ネットで仕事をしてネットで買い物すれば物理的には事足りるが、それは好んで山奥で自給自足するのと同じなので、好きにすればよろしいという話である。

 

だいぶ話が逸れたが、何が言いたいかというと、孤独を感じる人に対して「独りじゃないよ」的な発言をすることは、当たり前過ぎて何の慰めにもならないということである。

というか、これで慰められるようなら、その人の感じているものは孤独ではない。

それは孤立の延長上にあるもので、少しきつい言い方をすれば、本人の努力不足や臆病、無駄な自尊心が招く隘路である。

孤独は物理的な接触や精神的な交流によって解消されるものではない。

 

人は皆、本質的に孤独である。

別の記事で書いたが、私は人と人はわかり合えないと思っている。

syuten0416.hatenablog.com

だから、人は皆、誰からも完全には理解され得ない存在である。

それが孤独ということだ。

孤独の感じ方は人それぞれで、人間としての総合や依拠する根幹が標準偏差から外れるほど、つまりマイノリティほど感じる頻度が高く、感じ方も強い。

拭い去る術はない。

 

だが孤独は恐れるものでもない。

誰しもそうである。

恐いのは、その実態を掴めていないからだ。

孤独とは、自分が誰からも理解されないというだけである。

そのことを受け入れてしまえばいい。

受け入れられたなら、誰にも理解されない複雑な自己のシステムそのものが、唯一性を備えたアイデンティティになる。

私は孤独であるがゆえに私であり、私は私であるがゆえに孤独である。

そうなれば、孤独は常に隣にあって愛でるものとなる。

 

余談だが、だから孤独死という単語は、孤立死に変えた方が良いと思う。

孤独死は寂しい環境で独り死んでいくということが問題なのではなく、孤立したまま死ぬことで発見が遅れることが問題なのである。

死についても別の記事に書いているが、死んでしまえば寂しいもへったくれもない。

syuten0416.hatenablog.com

独り死んで寂しいね、可哀想だねというのは、生きている側の勝手な解釈である。

 

孤独を見つめ、人生の無意味さに絶望すれば、人は何も恐れる必要のないほど強くなれるはずである。