異呆人

毒にも薬にもならない呟き

宗教の有用性

私はポリシーをもって無宗教を公言している。

そう言うと、宗教そのものに批判的であると勘違いする人がいるが、そうではない。

宗教は有用だと思う。

ただ私には必要ないと考えるだけである。

ちなみに私の両親は仏教徒である。

しかもそれぞれ違う宗派の仏教を信奉している。

それぞれに熱心なので、時にそれが原因で喧嘩することもある。

むしろよく結婚したなと思うくらいだ。

 

宗教の起源はなんだろう。

私が個人的に考えるものは2つある。

1つは死の恐怖を取り除くことである。

人は自分が死んだ後のことを知ることはできない。

すでに自分が存在しないからだが、宗教はそんな想像しがたい状態ではなく、もっと明確に死後の世界を提示する。

死後の世界を描かない宗教はない。

天国や地獄を用意したり、輪廻転生させてみたり、人々に納得感のある世界を展開する。

死後も自分自身が存在するということは、今生きている人生が無駄ではないということである。

それは生きる意味を見出すことにもなる。

だから人は積極的に死後の世界を肯定し、ときに宗教を受け入れる。

 

もう1つは心の拠り所となることである。

生きている以上、苦難は絶えない。

本当に苦しいとき、人は自分の2本の足で立つしかなくなる。

宗教はそういった苦難の中において、杖の役割を果たす。

形あるものはいずれその形を失う。

形のない神仏は、人が生きているうちは常に傍にあって支えとなれる。

その存在の理屈に多少穴があっても構わない。

信じる気持ちは理屈を越える。

超常的な存在の庇護の下にあると信じることで、人は心の平安を得る。

験担ぎとか、少し前に流行ったルーティンと同じ効用である。

 

ここまで有用性を書いておきながら、なぜ私が宗教を持たないかというと、その有用性が私にとっては無用だからである。

死ぬことを怖いと思わず、心の拠り所を必要としないなら、宗教はあまり意味をなさない。

自分の人生の無意味さに自覚的で、孤独を恐れないなら尚更である。

神も仏もなくても生きていける。

宗教というものを意識する必要すらない。

 

人類の歴史には古くから宗教が根付いている。

それは世界のどこでも、日本においても同じである。

だから私たちが意識しない生活の多くのところに、宗教をルーツとするものがたくさんある。

宗教そのものを忌避するなら、それらを丁寧に回避していかなければならない。

それはグリーンピースを避けながら豆ご飯を食べるくらい面倒である。

そもそも、盆正月もクリスマスもない生活なんて味気ないとも言える。

さほど気にせず、適当に乗っかって楽しんでおけば良い。

 

ときどき宗教を持つ人に向かって、必死になって死後の世界や神の存在を否定する人を見かける。

存在しないという理屈はおそらく正しいのだが、何もそんなにムキになって正論を通さなくてもな、と思う。

前述の通り、宗教の有用性というのはその論理的整合性に関わらず発揮される。

逆に、信じていれば幸せでいられるものを、論破することで不幸にするのだ。

バカバカしいこと、この上ない。

人に害為すような破防法を適用されるような宗教ならともかく、そうでないなら寛容に接するべきだと思う。

 

ただ、宗教を信じるなら、心静かに信じていてほしいなと思う。

布教って、なんだか押し付けがましいですから。

どんな幸せだって、押し売りされたら幸せでなくなるので。