異呆人

毒にも薬にもならない呟き

死ぬということ

先日の地震で多くの人が亡くなった。

東日本大震災ほどの大惨事ではないかもしれないが、大きな被害が出ている。
人的あるいは物的被害の大小はあるかもしれないが、被災した人にとっては被害の程度の話ではなく、もっと切実な問題である。
とりあえずは、亡くなった方々のご冥福をお祈りしたい。
 
このような天災や不慮の事故で不本意に命を落とす人もいれば、自ら命を絶つ人もいる。
命の価値、人生の捉え方は様々であり、私は良い悪いはないと思っている。
身も蓋もない言い方をすれば、死にたい奴は勝手に死ねばいいと思っている。
まぁ自殺者の中でも、本当に死にたくて死ぬ人は少数で、追い込まれて止むに止まれずという人が多いと思う。
 
別の記事に書いているが、私は生きる意味も命の価値もないと思っている。
だから死ぬことにも、意味も価値もないと思っている。
死ぬ、あるいは死んでいるということは、生きていないというだけである。
マラソンのゴールのように、死は人生のゴールである。
そこから先はない。
 
死に意味や価値があるように感じるのは、生きている人間である。
死んだ本人は何も感じられない。
怖れるものでも忌避すべきものでもない。
意識することさえ必要ない。
死んで後悔することはない。
後悔すらできない。
 
例えば、先ほど「冥福を祈る」という言葉を使った。
あの世での幸せを祈るのだから、死後の世界の存在を前提とした言葉である。
当たり前だが、死後の世界はない。
では、この言葉に今日どんな意味があるだろう。
もちろん現代においても冥土の存在を本気で信じている人はいる。
だが多くの人において、死者の幸福を祈る行為は、自分が相手の死を受け入れるための行為であると思う。
昔の人も、死を理解して受け入れるために、今となっては荒唐無稽の物語を考え出したのだろう。
 
死に意味はなく、死者を弔うことも意味はない。
だから弔いを止めろというわけではない。
たとえ荒唐無稽でも社会の文脈の中で果たしてきた役割はあるし、生きている人間がそれで救われることもある。
形が大事なこともある。
儀式というものは、すべからくそうである。
 
だから葬式も生きている人間のための儀式である。
自分の死後の葬式のやり方をあれこれ考えることは、私にはとても滑稽に思える。
まぁそれも死を受け入れる準備と考えれば、好きにしたらいいと思える。
私は自分の葬式に興味はないので、生きている人間が好きなようにすればいいと思う。
ただそんなものに大枚叩くのが、もったいない気はする。
 
死を受け入れるのは、生きている人間の責任である。
泣いて泣いて泣いて、それで受け入れられるならそうすればいい。
受け入れがたい死もあるだろう。
だがそれは誰の責任でもなく、受け入れられない人間の責任である。
 
昔はよく死にたいと思っていた。
死ぬということ、存在しないということが、完全だと思っているからだ。
無がすべてのもののあるべき姿だと思っている。
無をあるべき姿と表することは矛盾しているが、他に上手い表現が思いつかない。
まぁ、結局私は死なずに生きているのだが。
だって急がなくたって、いつか死ねるから。