異呆人

毒にも薬にもならない呟き

生きる意味なんてない

高校時代、大学時代は自分が「なぜ生きるのか」ということばかり考えていた。

 

ある出来事をきっかけに、自分の価値観を自分で定めると決めてから、私が真っ先に疑ってかかったのは、「良い学校に入って、良い会社に入って、幸せな家庭を築く」という考え方だった。

学歴や収入が本人の幸福感と直結しないことは言うまでもない。

たとえ裕福でなくても、自分の周りにあるもので満足することは比較的簡単である。

恋愛や結婚だってそうである。

しなくたって、幸せに生きていくことはできる。

もっと言えば、人はいずれ死ぬのだから、幸せになる必要すらない。

不幸な人生も幸福な人生も、あるいは善人の人生も悪人の人生も、本人にとってはいずれ無に帰するもので等価値である。

死ねば皆同じ。

 

なのに、なぜ生きるのか。

さっさと死んで何にも感じなくなる方が、あるいは楽ではないだろうか。

私はずっと答えを出せなかった。

もともとやりたいこともなく、将来に希望を持っていなかったこともあるかもしれない。

ずっと「生きる意味はない」という答え以外のものを探していた。

それを認めると死にたくなる。

死にたいという気持ちと、死にたくないという気持ちに挟まれ、「これ」という何かに出会えることを望みながら、そんな願いは叶わず時間が過ぎていくだけだった。

 

考えるのをやめたのは、20歳を過ぎた頃だったろうか。

「生きる意味はない」という答えを、ようやく認められるようになった。

何度どう考えても同じ答えにしかたどり着かず、もはや考えることが意味をなさなくなっていた。

自分の中のほとんどあらゆる反証をくぐり抜けて生き残った答えである。

どんどん強固になって、覆しようがなくなった。

無力感というか、死にたくなることは多々あったが、適当に言い訳をつけて自分を励ました。

大学を卒業して部活動の主将を外れるまで、とか、奨学金を返し終わるまで、とか。

 

人間は思考能力の発達した生物である。

これほど高度に思考する生物は、地球上には存在しない。

ただどこまで行っても生物には違いない。

生きることを前提としているのである。

そして自分の生を次の生につなぎ、種を存続させることを目的としている。

だから考えなくても生きるようになっている。

理由や意味の外側に、私たちの身体はある。

水が高いところから低いところへ流れるように、人は生まれたら生きようとするのである。

 

そう考えたら気持ちが楽になる、ということはない。

人の心はそんなに綺麗に割り切れない。

ただ最近はあまり生きる意味など考えなくなってきた。

昔はそれがなんだか俗っぽくて嫌だったが、日常の雑事に埋もれている方が楽だし、私程度にはお似合いではないかと思えるようになってきた。

誰もが使命感を胸に抱いて、まっすぐに生きていけるわけではない。

たくさん寄り道をして結局何も見つけられず、ただ生きてただ死ぬだけの人生も悪くない。

でも死ぬその瞬間まで自分らしく胸を張って生きていけるようにしたいと思う。

なぜ生きるのか、ではなく、どう生きるのか。

歳をとって、少しは様になっているだろうか。