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異呆人

毒にも薬にもならない呟き

キャラクター紹介

今週のお題「自己紹介」

 

名前:朱天

性別:男

年齢:30代前半

出身地:大阪

身長:176cm

体重:54kg

血液型:AB型

星座:おひつじ座

好きな食べ物:甘いもの

苦手な食べ物:辛いもの

 

HP:8000

攻撃力:150

防御力:50

魔力:700

精神力:999

すばやさ:600

運:10

必殺技:『連続口撃』

「単体に8ヒットする無属性魔法攻撃。一定時間、対象のすべてのステータスをダウンさせる」

 

解説:

各地を転々とするさすらいの傭兵。

最近、妻を娶ってひとところに落ち着いたらしい。

性格は冷静沈着で、温厚にして陰険。

味方にすれば頼もしいが、敵に回すとめんどくさい奴。

理屈っぽくて、話が長い。

戦闘では典型的な魔法攻撃タイプ。

HPが高いので前衛に配置してもなかなか死なず、すばやさが高いので回避することも多いが、防御力は紙なので物理攻撃が当たるとすぐ落ちる。

意外と打たれ弱いので過信は禁物。

後衛で使うことを推奨。

精神力が非常に高く、魔法攻撃や状態異常がほとんど効かないのが魅力。

初登場時からレベルが高く、基本ステータスが優秀なので、シナリオ序盤では重宝する。

序盤なら単体で無双することも可能。

反面、特殊アビリティがまったくなく、シナリオ終盤では物足りなさを感じる。

クリア条件の複雑なステージや、終盤で他のキャラクターが育ってくると、途端に使いどころに困る。

補助魔法も使えるので、終盤はバッファーやデバッファーとして使うのが無難。

ただし回復魔法は一切使えないので注意。

 

*このプロフィールはフィクションです。

黒幕

楽に生きていく方法などないと思っている。

よほど運や境遇に恵まれていれば別だが、「誰もがこうすればうまくいく」的なメソッドとしてはない。
そうはわかっていても楽をしたいのが人間であり、私もまたそうである。
それ自体は悪いことではない。
文明の進歩というのは、「もっと楽にならないかな」という願望によって達成されてきたと言っても過言ではない。
ただその「もっと楽にならないかな」という願望自体が楽に叶うことはなく、要はどこかで汗をかかなければならないわけである。
 
しかし金を稼ぐということに焦点を合わせて言えば、誰にでもできるかどうかは別として、楽に稼ぐ方法はある。
定期的に収入が入るスキームを作ってしまえばいい。
最も一般的で合法的な手法としては、不動産で賃料収入を得る方法がある。
あるいは、金融商品で利息や配当を得たり、特許使用料を得たり、保険販売での継続手数料を得たりする方法がある。
グレーかブラックなところで言えば、ネットワーキングビジネスやマルチ商法などもこれに含まれるだろう。
これらはそのスキームが出来上がって順調に稼働してしまえば楽をできるが、それを作り上げるまでに資金なり労力なりのリソースが必要である。
結局は誰にでもできることではない。
ブロガーなんかも、ある意味ではこれに該当するかもしれない。
 
どんな方法で稼ぐにしろ、ビジネスは基本的に上流ほど儲かるようになっている。
上流が下流を搾取する傾向にある。
真っ当に会社勤めをするにせよ、会社員の方が法人としての企業より儲かることはない。
(赤字を凌いでいる状態の企業や、オーナーが給与として利益を丸取りしているような企業は除く)
不動産で言えば、ビル1棟を自分で買ったり建てたりして貸す方が、そのオーナーから1フロアを買ってそれを貸すより儲かる。
もっと言えば、ビジネスのリスクまで金に換算するなら、ビル1棟を賃貸して不動産経営をするより、ビル1棟を建てて売る方が効率的に儲けることができる。
不労所得を狙うなら不動産経営がいいのかもしれないが、順調にスキームが回転するまでは不動産経営する側も搾取される側に回る可能性があるということである。
安定した賃料収入が得られる物件は、そもそも簡単に手に入らない。
楽に儲かる話というのは、大体持ちかけている側の方が儲かる。
 
つまり楽に生きていきたい(概ね楽をして稼ぎたいと同義)という人々の欲求を狙って、一儲けしようという輩がいるということである。
「うまい話」の99%は、そういった構図になっている。
これは金儲けに限ったことではない。
楽に悩みが解決するかのような話も、そのほとんどが同じである。
誰でも楽に稼げるブルーオーシャンがあるなら、そこに人が殺到してすぐにブルーオーシャンでなくなる。
参入障壁があるなら、その参入障壁を少数の人間だけが超えられるという話が、まやかしである可能性が高い。
あるいは「たった一つの冴えたやり方」があるなら、皆がそれをマネするはずである。
あらゆる悩みや人生の障害を取り払うかのような話は、特定の人間にしか効果がないか、そもそもまったく効果がないかのどちらかである。
この場合も「あなたは特定の人間に含まれる」と囁かれるなら、それは99%まやかしである。
 
上流側の人間は、そのスキームでは下流でバッタリ倒れる人がいることを承知している。
つまり悪意をもって搾取している。
そういう黒幕が世の中にはたくさんいる。
そういう黒幕に唆されて身を持ち崩す人を見るにつけ、哀れでならなくなる。
たぶん防ぐ方法はないのだ。
賢明であるしかないのだが、そういった「羊」になる人たちは賢明である方法すら得られない。
搾取される側は、搾取されるべくしてそうなる。
これもまた弱肉強食ということだろう。
 
野球で言うなら、多くの人に求められるのは、ホームランではなく出塁することである。
ヒットでなく、ファーボールでもいい。
とにかく前に進むことである。
そして出塁するために、日々地道なトレーニングをすることである。
汗水垂らして働くこと、時に不遇にも耐え、必要があれば反発することである。
責任のない立場でフリーターをするよりは、社畜と言われながら働く方がいいだろうし、ギャンブルで一山当てるために元手を消費者金融や親類知人から借りるよりは、まだフリーターとしてでも働いている方がいい。
私たちはスーパースターにはなり得ない。
ともすれば世界の歯車にもなり得ない。
在ってもなくてもいい存在だと認識し、在ってもなくてもいい存在として生きる覚悟を持つことが、搾取されながらも真っ当に生きる上で大切なことなのではないかと思う。

服装へのこだわり

スーツで仕事をするというのは、ある意味楽だなと思う。

制服のある仕事と同じようなものである。

服装に悩まなくて済む。

これが私服で通勤するということになると、私はきっと曜日で服をローテーションさせるだろうから、「服装で何曜日かわかる人」扱いされていたかもしれない。

身体に合っていれば特段窮屈ということもないし、私服で仕事をする人などから「毎日スーツ着て仕事するとか大変じゃない?」と言われることもあるが、そんな風に感じたことはない。

むしろオンとオフの気持ちの切り替えを服装でできるというのは、それなりのメリットだと思う。

まぁ服装を変えたくらいで気持ちまで変わらない人も中にはいるだろうが。

 

私は服装には大したこだわりはない。

私服はほとんどユニクロである。

学生の頃は全身真っ赤なジャージで街中を闊歩していたが、今は無難で安ければなんでもいいと思っている。

あえて言うなら、シンプルなものが好きである。

シャツにジーンズやチノパン、みたいな感じである。

夏ならTシャツやポロシャツも多い。

無地かボーダーくらいの感じで、プリントのないものがいい。

雰囲気的には無印あたりがベストなのだが、無印は高いのであまり買わない。

食べ物と一緒で、服も着られればいいというのが基本スタンスである。

着心地も多少気にするが、ユニクロくらいでも十分だと感じる。

 

色はモノトーンやネイビーくらいがいい。

もはや服装で自己主張しようという気は起きない。

サイズはピッタリした身体のラインが綺麗に見えるものを好む。

それが一番他人からよく見えるということはわかっている。

あとは単純に細すぎるので、スキニージーンズを履いてもサイズがちょうど良かったりするというだけである。

 

こういった好みの結果、クローゼットには似たような服が集うことになる。

そもそもそんなに数を持たないので、その少ない数が似た雰囲気になっていると、ほとんど毎回同じような格好をすることになる。

いつも同じような服装ではないかと指摘されることもある。

「同じ服」ではないが、「同じような服」であることは間違いない。

普段着にも「制服」という発想があれば楽なのになと思う。

 

それが最近、妻の好みに侵食され始めている。

妻はもう少し柔らかい服装だったり、明るくて可愛い感じの色合いが好きなようである。

例えば、淡い緑だったり、水色だったり、ベージュだったり、そういったものを提案される。

一緒に買いに行くときなどはやんわり却下するのだが、プレゼントされるとどうしようもない。

着ないのも勿体ない。

あとは例えば、私が好んでトレンチコートを着るのも、あまり好きではないようである。

もっと暖かそうなコートを着るように言われる。

私に言わせればトレンチコートは意外と厚手で暖かいし、起毛タイプのコートやセーターは帯電しやすい私にはつらいので嫌なのだが、なかなか理解を得られていない。

妻の中の私のイメージは、実際の私よりだいぶ人間として柔らかいイメージなようである。

さすがにもう1年半以上付き合っていて、一緒に暮らしてもいるのだから、頭の中と現実とのギャップを埋めて欲しいと思う。

現実の私は、夜の砂漠のようにクールドライである。

そんな服装は私には似合わない。

 

しかし先に書いたように、根本的にはこだわりがない。

だから妻の好みを少しずつ、できるだけ受け入れるように努力している。

もしかしたら、服装を変えているうちに、実際の人間性ももっと温かみのあるものに変わっていくかもしれない。

そうしたらあまり突き放すような言い方はせず、親身に寄り添ったような態度を取れるようになるだろうか。

なんか、自分で書いてて無理な気しかしない。

服装で気持ちが変わることもあるが、やはり中身が服装に現れるんだろうなと思う。

人間を変えるのは、服装を変えるようにはいかない。

もしそんなことが叶うなら、まずは服装から変えてやりたい人間が沢山いる。

ひとりわんこそば

Netflix野武士のグルメお題「ひとり飯」

 

最近結婚して「ひとり飯」の機会は少し減ったが、独身の頃は一人暮らしの十数年間ほとんど「ひとり飯」だったわけである。

だが「ひとり飯」だなんて「」つけて言うほどのものではなく、ほとんどがインスタント食品や、スーパーで出来合いの惣菜を買うような食事だった。

美味しいものを食べることは好きだが、私の美食への欲求は世間一般の人よりずっと低いと思われる。

基本的に、腹に入れば何でも同じだと思っている。

今でも出張時などは「ひとり飯」になるわけだが、食事のほとんどが菓子パンである。

すぐ食べられ、車を運転しながらでも食べやすく、安くて高カロリーで血糖値が急上昇するため満腹感があり、甘いもの好きの私にとっては最強の食事の一つである。

三食菓子パンでも平気である。

学生の頃、毎日昼食にチョコチップメロンパンと魚肉ソーセージを食っていたら、気がふれた奴かと思われていたほどである。

 

たまに外食するときも、せいぜい牛丼か麺類程度である。

高いので、ひとり飲みをすることもない。

酒を飲むなら家で飲む。

食事という一瞬の悦楽に、大枚を叩く余裕と心意気がない。

出張が多いので、ご当地グルメを食べることはある。

もちろん、旅行のときもご当地グルメを食べたりする。

この場合、大切なのは「美味しいかどうか」という味ではなく、「〜で◯◯を食べた」という体験そのものである。

自分の経験の引き出し、話題の一つとしてストックするのである。

だから大抵の場合、再びその土地を訪れることがあっても、同じものを食べることはない。

 

繰り返し訪れ、訪れるたびに食べるご当地グルメなど、香川の讃岐うどんくらいしかない。

讃岐うどんは美味いし、何より安い。

トッピングのバリエーションの豊富さも魅力である。

讃岐うどんを食うときは、いつも「しょうゆ」を頼み、その上に大根おろしと生姜をたっぷりかけて掻き込む。

その日の気分で「かしわ」を付けたり、「じゃこ天」を付けたりする。

先日は「いいだこ」が美味かった。

もちろん、「ひとり飯」である。

 

讃岐うどん以外だと、名古屋で「きしめん」を食うことはある。

夕方、東京に帰るまで時間のあるとき、名古屋駅の新幹線ホームにある「駅きしめん」を食べるのである。

こちらもトッピングのバリエーションがあり、夏は「冷やし」があったり、名古屋らしく「味噌煮込み」があることもあるが、私のお気に入りは普通の「きしめん」である。

カツオの効いた出汁に麺とねぎ、その上から鰹節をのっけるだけ。

安いし、寒い季節は臓腑の中から温まる感じがする。

立ち食いで、さっと掻き込むにはこのくらいがいい。

何千円もする料理ほど味に工夫や奥行きがあるわけではないが、ワンコインでお釣りが来るくらいでも、シチュエーションが整えば至福を味わえるものである。

こちらも、もちろん「ひとり飯」である。

 

そんなご当地グルメ「ひとり飯」の最も印象深い思い出は、盛岡で「わんこそば」を食ったことである。

東日本大震災より前、自家用車で車中泊をしながら一人で東北をぐるっと一周、旅行したときのことである。

その日は午前中に青森は十和田湖で観光し、お昼頃に盛岡に着いた。

「盛岡=わんこそば or 冷麺」という頭だった私は、せっかくなので「わんこそば」に挑戦してみることにした。

ネタ、というか思い出になるだろうと思ってのことである。

確か駅前の何とかいう老舗っぽい店に並び、数十分待ってから中に入った。

当然ながら客は観光客ばかり。

そしてこれも当然ながらグループ客ばかりだった。

 

私は「わんこそば」のシステムを知らなかった。

入ってから説明を受けて理解したのだが、「わんこそば」というのは給仕の人が一人ついて、次々とお椀にそばを入れてくれるらしい。

そして満腹になったら、さっと椀に蓋をする。

給仕の人は空いているお椀を見つけたら、問答無用でそばを投入してくるようだった。

合いの手を入れながら、「ハイ、ハイ、ハイ」ってなもんである。

広い座敷に通され、隣のグループが食べているのを見ていると、大勢でやっていると楽しそうだった。

女の子なんかは、他の人のお椀にそばが入れられている隙にさっと蓋をする。

人数が減って来ると給仕さんとほぼタイマン状態になり、いかにさっと蓋をするかでさらに盛り上がる感じである。

 

私は一人だった。

そして給仕の人も一人付けられた。

マンツーマンである。

「ハイ、ハイ」という威勢の良い掛け声の中、黙々と一人そばを食べ続ける。

隣のグループ客にガン見される始末である。

自分から店に入っておきながらなんだが、もはや罰ゲームじゃないかという気がしてくる。

何杯食べたかは覚えていない。

最後、椀に蓋をする際に、「もうやめておきましょうか」と言わんばかりの、給仕さんの憐憫たっぷりな顔だけが、やけに印象に残っている。

「ひとり飯」はなかなか良いものだが、「ひとりわんこそば」だけはオススメしない。

 

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塾に通ってみたかった

今住んでいるアパートの近くに学習塾がある。

遅い時間まで中高生が勉強していて感心させられる。

会社の入居しているビルの別フロアにも予備校が入っている。

私が仕事で遅くなって20時,21時に退社するときに、同時に家路につく若者たちがいる。

会社の近くには日本で一番有名な大学があり、この場所に通うからにはきっと、頂きを目指して日々修練しているのだろう。

彼らには今の時期が苦痛に感ぜられるかもしれないが、齢30超えたおっさんからすると眩しい限りである。

 

私は学習塾に通ったことがない。

もともと学習は好きだが、勉強は嫌いである。

新しいことを学ぶのは好きだが、反復練習が苦手だと言い換えてもいい。

基本的に根気がない。

学校の勉強に関してで言えば、典型的な天才肌タイプだった。

テストの点数は抜群に良いが、宿題などはしょっちゅう忘れる。

学校の先生からすれば叱るに叱れないというか、扱いづらい生徒だったのではないかと思う。

 

早熟なタイプでもあったのだろう。

特に小学校の授業は退屈で仕方なかった。

なぜこんな簡単なことを何度も繰り返しさせられるのか、なぜ他の子はこんな簡単なことに時間がかかるのか、と思っていた。

その頃の私のモチベーションの一つは成績が良かったときのご褒美で、頑張っていればファミコンソフトが買ってもらえることだった。

3段階評価の通知表はいつもすべて3だったので、「漢字テスト10回連続満点」とか「1学期間、社会のテストがすべて満点」とか、そんなプラスアルファを評価されていた。

まぁ当時はケチのつけようのない内容だったし、逆に親もどこを褒めていいのかわからないくらい全部が良かったので、「とりあえず買っておいてやれ」くらいの感じだったかもしれない。

普段は要望を述べることに罪悪感を感じるような子供だったが、このときばかりは成果に対する正当な報酬という大義名分の下、大きく出られたように思う。

 

さておき、学業に関してはよくできた少年だったので、学校や近所でも有名な存在だった。

だから母親は、今でいう「ママ友」や近所の人から「なんであの子にもっと勉強させないの?」と言われていたようである。

母親は高卒、父親も大学中退なので学業はからっきし。

勉強させるも何も、何をどうしたらいいかわからないという状態だった。

中学受験の話が突然出たこともあったが、お金がかかるし、そもそも行かせたい学校もないし、みたいな感じでまったく進まなかった。

そんな折、よくわからない家庭教師の会社が営業に来て、私は小学5年生から週1回家庭教師に教えてもらうことになった。

母親は「何かさせた方がいい」という周りのプレッシャーを感じていたようで、「とりあえずやらせてみるか」くらいの感じだったと思う。

私自身も「学校より難しくて面白い勉強ができるなら」と思って、受けてみることにした。

 

ところが、この家庭教師の授業はとんでもなく退屈だった。

そこの会社のテキストを使って授業をするのだが、簡単過ぎてすぐに終わってしまう。

1回1時間半の授業なのに、1つの授業で使う問題が30分ほどで終わってしまうのだ。

あとは適当にダラダラしているか、それこそ授業を早めに切り上げていた。

今思えば、何のための家庭教師だったかわからない。

だがそれでも3年ほど続けていた。

授業料は大した金額ではなかったし、親も何もさせないよりマシ、勉強の習慣化に繋がる、と思っていたようである。

そもそも成績はもう上がりようがなかったのだし、効果があるかどうかなどわからなかったのだ。

 

変わったのは中学2年のときに、家庭教師の担当が交代したときだった。

それまでの、どちらかというと適当な学生ではなく、教えることに熱心な学生がやってきた。

まず私の成績と、問題を解かせてみてレベルを確認すると、その人は「君ならもっといけるよ!」という、松岡修造ばりの熱意を見せた。

そしてその先生に勧められるままに市販の難しい参考書を買い、また「彼の受験勉強のために、月賦は同じでいいんで週2回教えさせてください!」というその人の要望を受け、週2回教えてもらうことになった。

今考えれば、なかなかすごい申し出である。

それは私の学業にはプラスだったのかもしれないが、当時の私にしてみれば勉強が大変になっていい迷惑だった。

なんせ解かせられる問題は、関西の難関校「灘」や「東大寺」を目指すような生徒が解く問題だったのである。

基本的に学校の授業しか受けていない私には、まったくわからない問題がほとんどだった。

しかも教えている学生本人が解けないような問題も多かった。

外語大の学生で特に数学は得意でなかったようで、私がわからなかった問題の半分以上は持ち帰り、大学で得意な奴に聞いてから私に教えるような有様だった。

 

そんな謎のスパルタ授業を受けている中、周囲の友人たちの多くは塾に通っていた。

特徴ある講師や塾の友人の話題で盛り上がっている話を聞くと、羨ましさを感じたものである。

自分も通ってみたいなと思わないでもなかったが、塾の方が授業料が高いし、そもそも成績に問題があるかというとそうでもなかった。

志望校である学区内でトップの公立高校には、余裕で入学できるくらいの学力があった。

より上を目指そうと思っても残る選択肢は、難関私立を目指すか、同じ志望校でも狭き門の理数科を狙うか、大阪府内トップの公立高校の学区外入学枠を狙うかしかない。

私立は金がかかるし、私は当時から文系志望だったし、学区外入学は通学が大変である。

あえて塾に通ってまで学力アップを狙う意味はなかった。

ただあの仲間意識とか切磋琢磨する感じが楽しそうだなと思っただけである。

そんな塾通いの友人たちからは、「1回1時間半、週2回教えてもらっているだけで、毎日のように塾に通って2,3時間勉強する俺たちより成績が良いとか意味がわからない」と言われていたが。

 

大学入試のときも、塾や予備校には一切通わなかった。

どうやって勉強していたのかと聞かれると、まったく勉強していなかったとしか答えようがない。

友人からは「お前が難関国公立大に受かったら、全国の受験生に土下座して謝れ」と言われていたほどである。

幸い私が入学したのは地方国立大なので、土下座はせずに済んだ。

そんな感じで高校の頃は、勉強が「好きではない」から「嫌い」に変わっていたので、特に予備校に通う友人たちを羨ましいと感じることはなかった。

しかし今にしてみれば、何か目指すものがあってそれに向かってひたむきに努力するという展開は、胸熱で青春だよなと思ったりもする。

1回くらい通ってみたかったな、雰囲気だけでも体感したかったな、と思う。

まぁそもそも行きたい大学もなく、適当に選んで受けたら受かってしまって沖縄で4年間過ごすことになった私には、そんな胸熱な青春は望むべくもなかっただろうが。

 

春になり、桜が咲いた人も咲かなかった人もいるだろう。

受験生の中には、浪人してもう1年頑張ることになる人もいるだろう。

最近は就職浪人なんていうのもあるらしく、志望企業に入るためにもう1年勉強したり自分磨きをする人もいるらしい。

私の大学の後輩も、結局叶わなかったが、大手広告代理店でコピーライターになることを目指して就職浪人していた。

大変な世の中である。

学校の試験にしろ入社の試験にしろ、結果だけ見れば合格できなければ失敗である。

しかしそこで失敗することで人生が終わるわけではない。

回り道をするか、別の道を歩むことになるだけである。

そしてその失敗にどういった意味を持たせられるかは、そこから先の人生次第である。

もう散り始める桜を見て思うことは人それぞれだろうが、望む通りにいかなかった人も過度に悲観する必要はないと思う。

過ぎ去ってみれば、そこでの失敗を、味わいを噛み締めて振り返ることもあるだろうから。

どんな道を歩むことになったとしても、その失敗まで含めて唯一無二の自分の人生である。

2017桜花賞、阪神牝馬ステークス、ニュージーランドトロフィー

日記をやめたので、競馬結果だけメモ代わりに残しておくことにする。

今後買うときの反省材料になるかもしれないし。

 

阪神牝馬ステークス

◎3:クイーンズリング

◯6:ミッキークイーン

▲4:クロコスミア

△5:トーセンビクトリー

△16:アドマイヤリード

 

買った馬券

3連複 3ー4、5、6、16

馬連 4ー3、6

 

結果

1着:ミッキークイーン

2着:アドマイヤリード

3着:ジュールポレール

 

人気1、2番のミッキークイーンクイーンズリングを中心に考えるのは避けられない。

どちらを軸にするか迷って、結果として近走勝ち切れていないミッキークイーンよりクイーンズリングが信頼に足ると判断した。

馬場は緩めだろうし、前残りを期待して単穴はクロコスミア。

同じく前で競馬をするトーセンビクトリー。条件戦上がりながら、上がり最速を連発しているアドマイヤリードまで。

本命軸の3連複と単穴から馬連2点を購入。

結果は本命クイーンズリングが直線でするすると後退し、クロコスミアも粘り切れずに馬券は外れ。

ジュールポレールは完全に軽視していたが、よく見ればアドマイヤリードに直接対決で勝っているから、この位置にいても全然おかしくはないか。

 

ニュージーランドトロフィー

◎10:クライムメジャー

◯14:タイセイスターリー

▲7:スズカゼ

△16:ボンセルヴィーソ

△2:ランガディア

 

買った馬券

3連複 10ー2、7、14、16

馬連 14ー10、16

 

結果

1着:ジョーストリクトリ

2着:メイソンジュニア

3着:ボンセルヴィーソ

 

正直よくわからない。

馬柱を見て素直に考えるなら、実績があるのはクライムメジャー、タイセイスターリー、ボンセルヴィーソあたりか。

中山だし、外枠を割り引いて考えた結果、上記のような印になった。

スズカゼは牝馬とはいえ中山と相性が良さそう。

あとは内枠の馬から1頭加えようと思ってランガディアをチョイス。

馬券は本命軸の3連複と、なぜか◯印から馬連2点。

馬連をこの組み合わせにした理由が、今思い返してまったくわからない。

たぶん直前まで悩んだ結果、迷走してしまったのだと思われる。

結果は配当的には大荒れで、私の馬券はもちろん外れ。

ジョーストリクトリもメイソンジュニアもヒモとしては検討したが、買う決め手をイマイチ見つけられなかった。

固い筋から買うのでこんなレースは当たらなくて当然なのだが、1回くらい万馬券を当ててみたいなと思う。

 

桜花賞

◎14:ソウルスターリング

◯6:リスグラシュー

▲12:アエロリット

△15:アドマイヤミヤビ

△10:レーヌミノル

☆2:ライジングリーズン

 

買った馬券

3連複 14ー2、6、10、12、15

 

結果

1着:レーヌミノル

2着:リスグラシュー

3着:ソウルスターリング

 

これまでのレースを見る限り、大本命ソウルスターリングはどう考えても固そう。

少なくとも3着を外すことは考えづらい。

相手選びが難しいところで、自分が考えられる時間ぎりぎりまで迷った。

相手関係を含めた実績を考えると、リスグラシュー、アエロリット、アドマイヤミヤビは切れない。

他にどの馬を加えるか悩んだ結果、オッズを見て直前にレーヌミノルをチョイス。

近走の走りが物足りないとはいえ、実力や実績を考えると妙味十分と判断した。

あとは雨のフェアリーステークスで的中馬券を与えてくれたライジングリーズンを、思い入れを込めて選択。

馬券はシンプルに本命軸の3連複のみ。

3連複でもオッズがそこそこついたので、ああだこうだ考えても仕方ないと考えた。

結果は直前の判断が奏功して3連複的中。

買い目のメモは直前までレーヌミノルの代わりに買うつもりだったジューヌエコールのままだったので、本当に買っていたか心配になったくらいである。

レースは軸のソウルスターリングが最後にカラクレナイに躱されそうになり、ギリギリまで手に汗握ってしまった。

現3歳牝馬の層の厚さを示すようなレースで、見ていて面白かったと思う。

結果だけ見れば、阪神JFの上位3頭の並びが変わっただけだが。

 

昨年も今年入ってからもG1とはなかなか相性が悪かったのだが、先週の大阪杯に続いて2週連続の的中。

そして久々の2週連続プラス収支。

当たらなくても面白いとはいえ、やはり当たったときの気分は格別である。

小さく買って小さく儲ける作戦に戻したのが正解か、はたまた昨年からの傾向と同じで阪神競馬場のレースと相性がいいのか、春生まれの私の季節が到来したのか。

来週の皐月賞は誕生日である。

ぜひ自分自身にビッグプレゼントを送りたい。

得意料理

土日が休日出勤になり、久しぶりに9連勤くらいになった。

もう少し若かったときは小休止程度の休みでそのまま働いていたが、今はその体力も気力もないので、大人しく平日に連休を作った。

妻は仕事でいないし、実にのんびりできて良い休日になった。

やるべき雑事を済ませても時間が余るくらいだったので、思い切ってピザを作ってみた。

今度、妻の友人たちが休日の昼に遊びに来て、ホームパーティーのようなランチをすることになっている。

必然的に私が料理をすることになるので、何が食べたいか聞いておくように妻に言ったところ、「イタリアン」という回答があった。

何でもいいと言われるよりは、明快な回答で作る方としては助かる。

イタリアンならパスタでもいいが、ちょっとありきたりなので、ピザに挑戦しようかと思っていた。

だが、さすがにぶっつけ本番で人様にピザを出す勇気はないので、試作してみたかったのである。

 

ネットで簡単そうなレシピを調べ、材料を買い揃える。

生地を混ぜるのにアルミボウルだと軽くて不安定そうだったので、重量のある耐熱ガラスボウルを買ったり、生地を伸ばすための棒を100均で買ったりした。

レシピ通り分量を量り、とりあえず生地を作ってみたが、最初はあえなく失敗した。

ベトベトになって手にくっつき、とても生地をこねるような状態ではなくなった。

生地の発酵時間を短くするためにプレーンヨーグルトを混ぜるレシピだったのだが、匙ですくっているうちに少し入れる量が多くなったのではないかと思われる。

生地を一旦捨てて作り直す。

少しずつ具合を見ながらヨーグルトを加えていった結果、今度はなんとかそれらしいものが出来上がった。

実際焼いて食べてみた感想としては、レシピより少し長く焼いた方が生地がパリッとして美味しいだろうというものだった。

この反省を生かして本番で作れば、なんとか他人に出しても恥ずかしくない料理にはなりそうである。

 

料理というのは大抵、レシピ通りに作れば食べられるようになっている。

だから時間と手間さえかければ、大体の料理は誰にでも作れる。

よほど見目形にこだわらない限り、さほど高度な技術は要求されない。

別にイタリアンだろうが中華だろうがフレンチだろうが、要望されれば食べれる程度のものは作れると思う。

ただし普段、私がそういったきちんとした料理を、レシピを見て作ることはほとんどない。

いつもは思いつきと思い切りで、ざっくりささっと作ってしまう。

一言で言うなら、めんどくさいからである。

手順の面倒さもあるが、材料をいちいち揃えるのも面倒だし、もったいない。


まだレシピを見ながらでないと料理できない妻は、毎回きっちりレシピに書いてある通りの材料を揃える。

なかったら代用するという発想がなく、その材料が見つかるまでスーパーをハシゴする。

加えて分量もきっちり書いてある通りに使うので、1/2なら1/2しか使わない。

サラダなら皿に盛る量より多いと思ったら、それ以上は調理しない。

結果、妻が料理した後は食材が中途半端に残る。

野菜は切ってしまうと切り口から酸化して早く傷むので、できれば丸々使い切ってほしいと思う私にとっては焦れったかったりする。

私が家にいれば余り物もすぐに使うが、出張中だとそうやって数日放置された材料が、帰ってきたときに冷蔵庫の中に転がっているのを見ることになる。


先日妻と一緒に、家族ぐるみの付き合いをしている義父の友人とお茶を飲むことがあった。

話好きのご婦人で、新婚生活のことをあれこれ聞かれた。

家事分担の話になったとき、妻が「料理と洗い物は彼で、掃除と洗濯は私です」と答えると、「得意料理は何?」と聞かれた。

得意料理などない。

私が一度作ったあと、同じ材料・調理法で再現される料理は、たぶん皆無である。

何と答えたものかと思案していると、横から妻が「冷蔵庫の残り物で料理を作るのが得意です」と答えてくれた。

間違いない。

間違いはないが、それは果たして「得意料理」と言えるのか。

冗談の言えない不器用な妻だからこそ、今後、得意料理が「冷蔵庫の残り物料理」になってしまうことに、一抹の不安を覚えるのだった。