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異呆人

毒にも薬にもならない呟き

万に一つは一回目に起こる

表題の文言と同様のセリフを言っていたのは、確か西尾維新氏の戯言シリーズの登場人物、「人類最強」哀川潤だったと記憶している。

読んでいたときに、なるほど面白い発想だなと思い、以来、心に留めている理屈である。

「万に一つ」というのは、言葉通りなら1万回に1回、確率にして発生率0.01%の事象である。

まずそんな確率に乗るギャンブラーは少ないだろうし(それは期待されるリターンの大きさにもよるが)、少なくとも当てにならない数字ではある。

例えば0.01%の確率で元手が3倍になるチャンスがあったとして、それに賭けるギャンブラーがいたとしたら愚か者の謗りは免れないだろう。

 

だが0.01%は0%ではない。

1万回に1回はその事象が起きるのである。

そして「万に一つ」というのは、1万回試して初めて起きるということではない。

千回目に起きるかもしれないし、8千回目に起きるかもしれない。

そう、1回目に起きることだってあるのである。

むしろ何回目だろうと0.01%という確率は変わらないので、試行した回数が多いか少ないかは、実際にそれが起きる確率の高低と関係ない。

1回目に起きるかもしれないし、1万回やっても起きないかもしれない。

「万に一つは一回目に起こる」というタイトルの表現は、「確率なんてその程度のもの」という意味合いである。

 

私はデータとか、数字で表される確からしい情報が好きである。

もちろん数字の裏側に潜む意味には注意しなければならないが、精神論や根拠のない勘よりは当てになると思っている。

しかし数字で表されることというのは、逆に言えば数字以上の意味はないのである。

例えば昨年から始めた競馬においても、同じことが言えるように思う。

素人の私には、データという数字で表される情報は非常にわかりやすい。

トモの筋肉の付き具合とか、気性、血統の良し悪しなんてものは見ていてもわからない。

だが、枠、脚質、馬体重による有利不利などは、勝率・連対率・3着内率というパッと見てわかる数字で表される。

なんともそれらしいし、実際その通りの確率で決着しているのだから、確率が高い方が起こりやすいことは間違いない。

だから最初の頃はデータに当てはまらない馬は率先して切っていた。

 

しかし参考に上げられるJRAのデータなどは、せいぜい10〜20回程度のデータであるし、天候や出走馬、レースのトレンドなどはその年によって毎回違うわけである。

根拠があって有意差が出るデータもあるだろうが、たまたま有意に見える差が出ているだけのものもあるだろう。

万に一つだって1回目に起こることはある。

言わんや、10回、20回においてをや。

「今までこのレースでは7歳馬の3着内率は0%」と言っても、今年は勝つ馬が出るかもしれない。

拙い予想を何度も繰り返すうちに、データなんて所詮はそれ以上の意味はないなと思うようになってきた。

最近はレースに関するデータはあまり参考にしない。

データで見るのは、馬のコース適性や馬場適性くらいである。

それもまぁ、苦手だけれども調子や相手関係によっては勝ってしまうこともあるわけで、「確率が高い、確からしい」という以上の意味はないだろう。

 

データを当てにしたから、あるいは当てにしなくなったからといって、大して的中率は変わっていない。

どれだけ一生懸命、あるいは精緻に予想したとして、当たるときは当たるし、当たらないときは当たらない。

それを言っちゃお終いかもしれないが、きっとそんなものなのだとは思う。

だから競馬は面白いと言えるし、当たらないからこそ当たるように予想の試行錯誤を繰り返す。

必ず勝てる勝負なら、儲かりはしても、きっと熱くはなれないだろう。

逆説的だが、競馬は当たらないから魅力的だと言える面があるかもしれない。

もちろん、無尽蔵に資金のある人間ならともかく、一般市民はまったく当たらないと続けてもいられないのだが。

それに当たると嬉しいし、金が増えればなお嬉しい。

金などいくらあっても困らないのだから、続けられる程度に当てたいというより、できれば一山当てたいというのが本音ではある。

 

さてさて、今週末も頭をひねりながら頭を抱えながら、競馬予想に精を出すとしましょうか。

ストーリーとしての競争戦略

久しぶりに本を読んだ。

それもハードカバーのビジネス書である。

「ストーリーとしての競争戦略」:楠木 健

 

日経新聞は毎日読んでいるし、日経ビジネスなどのビジネス雑誌を読んでいたこともある。

しかし普段はあまりビジネス書は読まない。

新聞や雑誌を読むのは情報収集が目的であり、学習が目的ではない。

この手の本を読むのは、一時期流行ったドラッカーの「マネジメント」(「もしドラ」ではない完全版の方)を読んで以来である。

きっかけは日経新聞のビジネス書解説のコーナーだった。

よく読まれている、あるいは流行りのビジネス書の内容を、かいつまんで解説してくれるコーナーである。

物語のあらすじだけ読むような行為ではあるので良し悪しだが、ビジネス書丸々一冊読む気力のない私などには、なかなかありがたいものだったりする。

確かそのコーナーにこの本の名前が挙がっていて、「すでに経営学のクラシック(古典、あるいは基本)と言える」と評価されていた。

これはいわば「ベタ褒め」である。

私も名前は聞いたことがあったし、興味は持っていた。

折しも自社の戦略についてあれこれ考えていたところだったので、「そこまで評価される代物なら」と読んでみることにした。

たまには堅い本を読むのも頭の体操になる。

 

しかし、私の読む前の気構え、つまり「ビジネス書を読むぞ」という気概は、良い意味で裏切られた。

なぜなら、面白くて一気に読んでしまったからである。

これは本の内容とも関連するのだが、著者が「読んで面白いもの」を目指して書いているからである。

だからビジネス書にしては読みやすいし、面白いのだが、内容はとても深い。

新しい読書体験をしたような気分になる。

「思わず一気読みのエンターテイメント小説」というのはあるし、「読み応えのある重厚な良書」というのもあるが、それらとは少し異なる。

いわば、「老舗の料亭の味をランチでこの価格で」というような代物である。

内容は重厚だが、肩肘張らずにカジュアルに読める。

 

最初の方は、「そうそう、こういうことが言いたかったんだよ」というように、自分が考えていた「戦略」なるものに合致する部分が多く、頷きながら読んでいた。

ゴールの設定、つまり利益の源泉をどこに求めるか、コンセプトの重要性、戦略の一貫性の重要性、個々の打ち手(私が考えるところの「戦術」)のシナジーなど、非常に参考になる部分が多かった。

ぜひうちの会社の人間に読んでもらいたい。

というか、この本の話をしたときに部長が借してほしいと言ったので、すでに読み終えて貸してしまっている。

こういう考えを共有できる人が増えれば、それを実際に行動に移すことができるかもしれない。

自社に置き換えて、改めて戦略を考えるのである。

ちなみに戦略と戦術については、随分前に記事にしている。

syuten0416.hatenablog.com

 

初めは「私もそう思う!」というスタンスで読んでいたのだが、後半は内容がそこからさらに深化する。

「そうそう」から「ほうほう…」に変わり、「頷く」から「膝を打つ」に変わった。

自分が考えもしなかった理論が次々と展開され、まさに目から鱗が落ちるような思いで読み進めた。

特に著者が言うところの「起承転結」における「転」の発想、戦略の「キラーパス」の理論は非常に面白かった。

誰もが「こうすれば良いよね」と思う戦術は真似されやすく、他社との違いを生みにくい。

違いを生み出せなければ消耗戦になり、利益が上げられなくなる。

しかし一見すると「そんなやり方はダメだ」、「業界をわかってない」と思えるようなやり方だが、戦略全体で見たときに非常に効果的な一手に変わるような戦術であれば、その一手だけ真似しても効果を発揮しないし、そもそも「真似しよう」という動機を生まない。

それこそが戦略における最も重要な「キラーパス」だというのである。

 

これは上記のように端的にまとめようとしてもわかりづらい。

この本の中ではスターバックスAmazonアスクルなどの事例を取り上げて、非常にわかりやすく解説してくれている。

興味があれば、ぜひ読んでもらいたい。

また、わかりやすいだけでなく、面白いのである。

著者は「良い戦略」の一つの指標として、「話している本人が面白がって話せる」ことを挙げている。

だから「良い戦略」の具体例として出てくる上記企業の戦略というのは、読んでいる側もとても面白いのである。

自分もしかめっ面して腕組みしながら戦略を考えるのでなく、人に楽しそうに語れる戦略を考えたいものだと思う。

まぁ、それは自分が戦略を考え実行できる立場になればの話ではあるが。

「YES/NO枕」の意義

結婚生活を送り始めて、早1ヶ月半ほどになる。

家事配分は私の比重の方が大きいのだが、その方が効率が良いし、私が好きでやっているので特に問題は感じない。

また細かな生活習慣の違い、例えばバスタオルやハンドタオルをどれくらいのスパンで替えるか、洗濯物の畳み方がどうかなどの問題はあるが、その程度ならお互い譲歩し合えばいい。

さほど現状に不満はない。

 

強いて言うなら不満というか、夜の営みの回数について少し悩んでいる。

もともと付き合ったいたときは、月1回か2ヶ月に1回程度だった。

遠距離というほどではないが、お互いの住んでいるところが電車で2時間ほどの距離だったので、そうそう彼女が私の部屋に来るということがなかった。

彼女は実家暮らしで義父は堅い人でもあるので、極力外泊も避けていた。

誕生日やクリスマスなどのイベントの際は、妹の部屋に泊まると言っていたようである。

もちろんバレているだろうが。

この1,2ヶ月に1回という回数は私にとっては少なく感じられたが、私もまぁ何がなんでもというほどではなかった。

別に自分で処理していれば事足りると思う類の人間である。

 

同棲を始めた当初半月ほどは、週2回くらいはしていた。

何と言うでもなく、自然な流れで、である。

というより、妻のちょっかいに応じていたらそうなった。

しかし半月ほどしてから、セックスの最中に痛がるようになった。

話を聞いていると、どうもサイズのミスマッチのようである。

付き合っていたときから圧迫感があって苦しいと言うことはあったが、ストレートに痛いと言われたのは初めてだった。

本人は否定したが、もしかしたら以前からそうだったのかもしれない。

これ以上濡らすのは無理な状態だし、解決策など慎重に動くくらいしか思いつかない。

難儀な話だが、合わないものは仕方がない。

 

それから自然と回数を減らして、週1回するかしないかくらいになっている。

私からすると、どうも気を遣う。

それ以外のことでもそうだが、はっきり言うように伝えているのに、妻は我慢する癖がある。

私がセックスしたいと言えば、多少気乗りしなくても応じるだろう。

それは私としては不本意である。

気乗りしているかいないかは、始めてしまえば反応を見ればわかる。

しかし、始めてしまったなら収拾をつけるのが難しいのが男の性である。

できればそんな事態は初めから避けたい。

 

だからそもそも、私は妻が甘えてきたときにだけするようにしていた。

そうすれば概ね外さない。

しかし最近は甘えてきても、ただイチャイチャしたいだけなんだなと思わされることも増えてきた。

ただ触れていればそれで十分、という奴である。

これはなかなか男には理解しづらいのではないだろうか。

ベッドの中でイチャイチャされれば、そのまま抜き差しならぬ状況に持ち込みたい、と言うか、抜き挿ししたいのが男の性である。

 

そんなことを考えていたら、あの「YES/NO枕」という代物が頭に浮かんだ。

「新婚さんいらっしゃい」で有名な、例のアレである。

私はずっと、アレはジョークグッズだと思っていた。

そんなもの雰囲気でわかるだろう、あるいは直接伝えればいいだろうと。

しかし気分の問題だけならともかく、生理の日だってあるわけである。

ちょっと盛り上がってしまってから、「今日はちょっと」と言われるより、最初からわかっている方が良いには違いない。

そう考えると、あの「YES/NO枕」という奴は、実はもの凄く意義のある理に適ったアイテムなのかもしれない。

しかし自らアレを買うのはなぁ。

それこそジョークと思われかねない。

 

ただ最近そうかもしれないと思っているサインがある。

それはベッドに入って甘えてくるときに、電気がついているかどうか、である。

以前は明るいのを恥ずかしがって絶対に電気を消していたが、最近はつけたままするようになっている。

どういう心境の変化かわからないが、私はよく見えるので明るい方が良い。

反対に電気を消してから甘えてくるときは、イチャイチャしてそのまま眠りたいときのようである。

よく観察していると、そのような傾向が見られる。

 

個人的には、できれば週2回はしたい。

これまでは回数に不満があっても自己処理できたが、今はそういうわけにもいかないのである。

さすがに妻の前でAVを見る気にはならない。

こんなことをグダグダ考えているくらいなら、それこそ「YES/NO枕」でも買った方がいいかもしれない。

ある日それがベッドに置かれていたら、妻はどんな顔をするだろうか。

愛を知らぬゆえに、愛に憧れる

今週のお題「カラオケの十八番」

 

カラオケが好きである。

厳密には歌を歌うことが好きなのだが、家で鼻歌を歌うときを除けば、カラオケで歌う以外に歌を歌うチャンスなどない。

家で鼻歌を歌うときだって、声量を絞らないと近所迷惑になるので自重している。

小さい頃は、機会があれば率先して歌っていた。

小学生のときに運動会の応援団をやったとき、本番でアドリブでマイクスタンドを差し出されたら、躊躇わずに思い切り応援歌を歌ったことがある。

予定になかったことなので、見に来ていた両親はいきなり息子の歌声が響いて驚いたそうだ。

 

中学生や高校生の頃は、部屋でイヤホンで音楽を聴きながら、声を落として歌っていた。

部活をしていたのでバイトができず、金がなかったのでカラオケなど滅多に行かなかった。

大学生になってからは、気が向いたら友人と連れ立って行くようになった。

仲の良いメンバーと行くので、音楽の趣味なども似通っており、気を遣わずにカラオケを楽しめた一番良い時期だったかもしれない。

仕事をするようになってからは、一人でカラオケに行くようになった。

新卒で赴任した土地には縁もゆかりもなく、できる遊びは限られていた。

仕事のストレスも大きかったので、遠慮なく大声を出せるカラオケはとても楽しく、いいストレス発散になった。

まだ「ヒトカラ」という言葉が使われ始めたかどうか、という頃だったと思う。

月2,3回一人で来店して、フリータイムで3時間ほど歌って帰る客は、店員から奇異に思われていたかもしれない。

 

万能型の私は、歌も人並み以上に得意である。

人が聞けば「おっ」と思う程度、少なくとも聞き苦しくはない程度ではある。

ただ人前で歌うのが好きかと言われると、嫌ではないが好きではない。

私みたいな素人が歌うことは、基本的に自己満足である。

つまり歌うときは悦に入っているわけで、そんなところを人様に見られて恥ずかしくないほど、私は羞恥心の欠けた人間ではない。

だから人前で歌うときは適当に手を抜く。

別にわざと下手に歌うわけではない。

野球で言うなら、オープン戦に登板するピッチャーのようなものである。

本気で熱唱したいときは、やはり一人でカラオケに行くのである。

 

好きな歌はいろいろあるが、カラオケで歌うのは基本的にノリの良い明るい曲が多い。

これは一人でカラオケに行くときもそうである。

しっとりバラードを歌いたいときもあるが、ストレス発散を兼ねて楽しんで歌うのだから、やはり歌って元気になれるような曲の方が好きである。

ただ冷静に選曲を眺めていたりすると、ラブソングが意外と多く、そしてその中でも失恋ソングが多かったりする。

たぶん私のことを知っている人なら、私とラブソングの取り合わせのミスマッチは、ショートケーキ味の一平ちゃんと同レベルだと感じられるだろう。

それくらい、私は恋愛に縁の少ない人生を生きてきた。

それはモテるモテないとか、恋愛したいしたくないとか、そういう話ではなく、単に私に恋愛感情がないからである。

 

それなのにラブソングが好き、というかよく歌うのは、むしろ恋愛感情がないからだと言える。

私は恋愛感情のある人ってすごいな、と思っている。

私の親友などはそれこそ何度も失恋し、その度に事の顛末を語って聞かされるのだが、それだけ人の良いところに目を向けて好意を抱き、恋が実らなければ嘆き悲しむ豊かな感情があることは、とても素敵なことだと思う。

恋愛至上主義みたいなものには辟易するし、恋愛以外にも人生には素晴らしいものがたくさんあるのだが、恋愛もまた素晴らしいものだろうなと思うのである。

ラブソングを歌うと、そんな恋愛感情を擬似体験した気になれる。

詞という詩にありったけの気持ちが詰め込まれたものを感情を込めて歌うと、気分だけでも味わった気になれるのである。


いろいろ歌う曲はあるのだが、一人でカラオケに行くと必ず歌い、十八番と言える程度に得意な曲は一つだけである。

RADWIMPS:「もしも」。

片想いの相手への愛をこれでもかと歌う曲で、実際にこんな奴いたら「重い」んじゃないかと思うくらいだが、意外と世間の人の恋愛感情というのはそれくらい切実なのかもしれないと思ってしまう。

特に終盤に入る以下のメロディの部分が好き。


「周りのみんなは君を顔で選んだって言うけれど

    そんなんじゃなくて そんなんじゃなくて 君の人間好きになった」


すごくシンプルだが、こんな風に思える人がいるって、素敵なことだと思う。

自分もそう思える人を見つけたい、自分も誰かにそう思われたい、そんな気持ちがメロディとともに湧き上がる箇所である。

この後の間奏部のストリングスも非常に良い。


RADWIMPSと言えば、昨年は「君の名は。」の主題歌「前前々世」で一躍時の人となり、紅白にも出場した。

好きだと言う人は回りにも結構いて、「有心論」あたりが一番好きだという意見をよく聞く。

しかし「RADWIMPSが好き」と言う人の中にも、この曲を知らない人が結構いて、ちょっと残念に思ったりする。

良い曲だと思うんだけどね。

ちなみにこの「もしも」はインディーズの頃の1stシングルらしく、CDは限定生産だったので今ではとんでもない値段が付いているようである。

その後の1stアルバムに収録された同曲は「みんな一緒にバージョン」となっており、私はこちらしか聴いたことがない。


この曲はすごく気分が乗ったときは友人の前でも歌う。

ただし好きな曲なので、歌うときには手を抜かない。

つまり他の曲より上手く聞こえるので、唯一他人から私の十八番として認識されている曲でもある。

しかし昔の部活の後輩からは、「めっちゃ上手いんですけど、上手さと朱天さんが歌う似合わなさのギャップがすごいです」と言われたことがある。

いや、自分でもわかってるよ、もちろん。

この言葉を思い出しては、やっぱりカラオケは一人で行くものだなと思い直したりするのである。

日記 <2017.2.27〜3.5>

2.27(月)

内勤。

朝起きると、喉が少し痛かった。

何度も経験している風邪の兆候。

悪化しそうなタイプのやつである。

弁当は作り置きしてある春巻きとポテトサラダを詰め、卵焼きだけ焼いた。

仕事は朝から緊急の会議が入っていた。

何事かと思ったら、急遽、4/1付で社長交代というアナウンスだった。

親会社から来て、まだ2年しか経っていない。

今の社長が良かったか悪かったかは別として、子会社だからとはいえ通常の人事異動感覚で社長をコロコロ変えるのはやめてほしい。

仮にも経営者である。

だから長期的な戦略が練れないのだし、これでまた親会社から新しい人間が来たら、今の会社の状況や業界の慣習を把握するのに時間を費やすのである。

そして慣れてきた頃にまた異動という悪循環。

だからうまくいかないのだと言ってやりたい。

業績が良くないのに、そんなことをやっている場合か。

しかも私は社長に結婚式の挨拶を頼んでいるのである。

手前勝手な都合ではあるが、勘弁してほしい。

さすがに来て2ヶ月の新社長に挨拶頼むのもどうかと思うし、どうしようか。

などと心の中でグダグダ思っていると、部長から飲みに誘われた。

不満が溜まっているのを察してくれたようである。

ありがたい。

仕事はぼちぼちと事務作業をこなす。

先々バタバタしそうなので、少し前倒しして2週間先くらいまで見据えて作業を進めておいた。

夜は後輩も交えて、部長と飲みに行った。

とりあえず、自分の考えていることを酒の勢いに任せて全部ぶちまける。

まぁ、それはいつものことなのだが。

酒がなくても私は、もっとああした方がいいとかこうした方がいいとか、常に問題提起をしている。

それが叶うことはほとんどないが、叶わないからといって言うのをやめたら「負け」だと思っている。

後から「俺はこうした方がいいと思ってたんですよね」なんてことは、好きなだけ言える。

ならせめて結果がどうであろうと、自分はやれるだけのことはやったと思いたいのである。

生ビール1杯とホッピーを焼酎3杯分飲んだだけだったが、体調が万全でないせいか、結構酔っ払った状態で帰宅。

連絡はしたが急な飲みだったし、妻から小言の一つも言われるかと思ったが、温かく迎えてくれたことはありがたかった。

ほぼ速攻で就寝。

 

2.28(火)

内勤。

酒の頭痛と風邪の辛さで、寝たり起きたりを繰り返していた。

目覚めは最悪の三歩手前くらい。

重い頭を抱えながら、再び春巻きとポテトサラダとゆで卵で弁当。

昨晩、水をあまり飲まなかったせいで喉がカラカラで、風邪と相まって大変なことになっていた。

あまり良い状態ではなかったので、大人しく風邪薬を飲むことにした。

普段はあまり薬に頼らない主義なのだが、同居人がいる現状では早期の回復が務めである。

しかし風邪薬が効いているのか、猛烈な眠気でなかなか仕事が捗らない。

幸い大した仕事はなく、単純作業の繰り返しだけだったので助かった。

まぁ薬を飲まなければ飲まないで、風邪の症状で能率は下がるのだろうから、風邪が早く治るだろう分だけ、服薬して眠気に耐えて仕事をする方がマシと言えるかもしれない。

ほぼ定時で上がり、買い物をして夕食の準備。

肉じゃが、ぶりの塩焼き、わかめの味噌汁。

ちょうど目の前で、ぶりの切り身に半額シールが貼られたので飛びつく。

貧乏性の割引大好き人間である。

夜は昼間の眠気そのままに、すぐに眠りに落ちてしまった。

 

3.1(水)

内勤。

薬を飲んでいるせいか、体調は回復してきた模様。

ここで油断せずに、もう1日くらいは薬を飲み続けることにする。

弁当は三度、春巻きと卵焼きとポテトサラダ。

美味しいものは好きだが、さほど食にはこだわらないので、多少不味かろうが、同じものを毎日食べ続けようが平気な人間である。

昨日はし忘れたマスクをつけて会社に行ったら、「ただでさえ小顔なのに、マスクの小顔効果がすごい」と、女性陣から羨ましがられる。

こちとらダテでマスクをつけているわけではなく、正真正銘の風邪である。

もうちょっと他に言うことがあるだろう。

朝から月初の定例会議。

特記事項なし。

昨日一昨日と同様、単純作業の事務を中心に仕事をした。

自分の分は早々に終わってしまったので、ほとんど他人の手伝い。

私一人が遊んでしまうより、自分が頑張って全体最適を取る方が、最終的には自分の利益につながる。

こういうことは、目先の損得で考えてはいけない。

仕事中は薬のせいで、昨日同様激しい眠気に襲われて参った。

行きの電車でも帰りの電車でも、新聞を読みながら寝落ちしていた。

薬が身体に合っていないのだろうか。

昨日と同じく、定時退社。

妻がブライダルエステに行く日だったので、帰ってくるまでのんびり夕食の準備。

昨日の残りの肉じゃが、茄子味噌炒め、豆腐の吸い物。

味噌と味噌になるからと、味噌汁を避けてダシと醤油で吸い物にしたら、味見で舌を火傷した上に、味見が不十分になり味が薄くなってしまった。

猫舌って、人生損するよなと思う。

床に入ると昨日同様、電源が落ちるように気付いたら寝ていた。

 

3.2(木)

日帰りで兵庫出張。

兵庫くらいなら新幹線が早くて便利だが、レンタカー利用前提でコストだけ考えれば、羽田からスカイマーク神戸空港に飛んだ方が安い。

早めに予約できれば、値段は倍近く変わる。

最寄り駅を5時半発の電車に乗って、羽田から朝一の便でフライト。

車の運転があるので風邪薬は控えたが、睡眠不足のせいかやたらと眠たくて飛行機ではずっと寝ていた。

最終盤に差し掛かった読みかけの本を、読み終えてしまいたかったのだが。

あとで妻から聞いた話だが、鼻づまりで鼻呼吸ができず、大層寝苦しそうにしていたそうだった。

眠りが浅かったのかもしれない。

到着後すぐ車を走らせ、午前中は淡路島。

他社との競合案件。

ロケットランチャーにピストルで立ち向かうような不利な話だが、立ち回り一つでピストルの方が有利にもなり得る。

何とか今年度並みの取引を、来期も続けてもらうことで合意した。

午後は明石、加古川方面へ。

あまりに眠いので、仮眠を挟みながら営業して回る。

仕事を終えると、神戸空港から羽田にフライト。

いつもの出張より少し早く帰れるかと思ったが、便の遅延で結局家に着いたのは22時過ぎだった。

妻は友人と飲み会とのことだったので、夕食は最寄り駅前の吉野家豚丼

やはり牛丼の中でも吉野家は一番旨い。

最近は常に50円をケチって豚丼だが。

 

3.3(金)

内勤。

1週間ぶっ続けの春巻き弁当を持って出社。

仕事はこの日もほとんど他人の仕事の手伝い。

大してすることがない。

風邪は治っていそうだったが、念のためマスクを装備していた。

喉は大丈夫になっていたが、鼻水がとにかく大変なことになっていた。

鼻をかむとき、私はわざわざトイレに行くのだが、そうそう頻繁に席を立っていては仕事にならない。

仕方ないのでしばらく放って置いたら、マスクの内側に鼻水が溜まってしまって、大層不快だった。

私は毎日コーヒーを飲まないとダメな人間で、1日数本の缶コーヒーを飲むのが習慣なのだが、最近節約のためにインスタントコーヒーを会社に持ち込んでいる。

1日1,2本の缶コーヒーでも、積もり積もればバカにならないものだと実感している。

仕事はこの日もほぼ定時退社。

帰り道、東京駅から電車に乗るときに、扉が開くなり中から慌てて男が飛び出してきて、そのまま走り去ってしまった。

気にも留めずに乗り込むと、リュクサックが地面に置かれたままで、その傍らに透明な液体がこぼれていた。

乗客が敬遠するため、エアポケットのようにそのリュックの前の座席が空いていたのだが、私はこれ幸いと気にせずに座席に座った。

尿意が我慢できずに失禁し、リュックも忘れて飛び出したのだろうか。

それともこれはテロか何かで、液体がVXだったり、リュックの中にガスなどの化学兵器や爆弾が入っていたりするのだろうか。

そんなことを妄想した。

同時にこういうときの、「よくわからないものに近寄らない」という人間心理は面白いなと思ったりもした。

夕食は親子丼、妻の作った梅サラダ、豆腐の味噌汁。

翌日、結婚式の中身に関する打ち合わせの予定だったので、妻は遅くまであれこれ考えていた。

先日、初めて友人の結婚式に出席し、いろいろ思うことがあったよう。

そしてまた気持ちが塞いで、寝る前に泣き出してしまった。

自分のやりたいこととできることと、それが一般的かどうか、出席者に失礼にならないか、またワガママを言っているのではないか、と悩んでいるとのこと。

先日、私が指摘した費用についても、妻が思っていたより膨らんでしまい、そういう計算が冷静にできない自分に嫌気がさしているのもあるようだった。

「世の中そんなもの」と割り切れないのは、確かに妻が世間知らずで子供な部分もあるわけだが、それだけ純粋な気持ちで世の中を見られているわけで、一長一短だと思う。

大体、「もう少し冷静になりたい」と言って、比較する相手が私というのはいただけない。

私くらい冷静な人間がゴロゴロいたら、ある意味、世も末である。

費用に関してはできることとできないことがあるし、結婚式は自分たちのためのものではなく出席者に婚姻を報告する場なので、出席する人の気持ち(言わば世間の常識)も考える必要があるが、妻は妻らしく好きなようにしたらいいと諭した。

ブレーキを踏むのは私の役目である。

 

3.4(土)

朝から結婚式の打ち合わせ。

衣装合わせも含めると、ほぼ毎週通っているような気がする。

相変わらず、朝から鼻水が酷い。

前日あたりから考えていたのだが、もしかしたらこれは花粉症だろうか。

目がシパシパするし、くしゃみも出る。

ここ数年、花粉かどうかはわからないが、季節によってアレルギー性の鼻炎を発症している。

風邪と思っていたが今回もそれで、そして花粉症だという可能性もある。

嫌だなぁ、花粉症デビューとか。

式の打ち合わせは滞りなく終わった。

全体の大まかな流れを確認し、疑問点を少しずつ解消して行った。

不安で憂鬱になっていた妻も、費用に関してはだいぶセンシティブな反応を見せていたが、概ね自分の希望が形になってきて安心したようである。

終わってから横浜で妻と昼食を取り、その場で解散した。

私は夜の送別会に備えて、餞別を買いに高島屋へ。

あとあまりに鼻炎が酷いので、鼻炎薬を買って飲むことにした。

買い物が終わると、まずは東京まで出て友人と皇居ラン。

軽く2周、10kmほど。

昼食った焼き鳥丼と蕎麦が胃に残っており、加えて鼻炎薬のせいかやたらと眠く、非常に辛いランニングだった。

ランステでシャワーを浴びて友人と送別会に向かおうとすると、お互いの持っている餞別の袋がどうも似ていることに気がついた。

「もしや」と顔を見合わせて中を見ると、まったく同じ包装紙、そして中身を言い合うとまったく同じ菓子を買っていた。

だだ被り。

いくら親友とはいえ、とんだ気の合い方をするものだ。

友人と2人で池袋に移動し、送別会兼私の結婚祝い。

大学つながりと、私が声をかけて参加しているチームマラソンのメンバーである。

11人も集まり、わいわい賑やかに酒を飲みながら歓談して楽しかった。

安い鉄板焼きの店だったのだが、私は「主賓」扱いされているにもかかわらず、ひたすらお好み焼き、もんじゃ焼き、焼きそばを焼き続けていた。

私が大阪人だからそう感じるのかもしれないが、お好み焼きを自分で焼いたことがない人って結構いるんだな。

10年来の付き合いになる友人に「初めてお前の大阪人らしいところを見た」と言われる始末である。

昔から「一家に一台欲しい男」と言われているオールラウンダーである。

これくらいは朝飯前と言いたい。

しかし、具材をのせたアルミの皿が必要以上に鉄板に近いところに置かれていて、それを取ったときに右手の指を3本も火傷してしまった。

冷やすものがなく、ひたすら生中のジョッキを握りしめていたが、立派な水ぶくれができてしまった。

飲み会では、結婚祝いとして皆からそれぞれお祝いの品をたくさんもらった。

じゃがりこやチョコレートをくれる奴もいれば、なぜか私が引っ越した先のエリアの「るるぶ」をくれる奴もいた。

るるぶ」をわざわざプレゼント用に包装して渡すとか、なかなかいい根性をしている。

相変わらずのメンバーたちであり、まぁ物はなんであれ気持ちが嬉しかったりするものだ。

終電近くまで飲んでから帰宅。

帰りの電車でイヤホンをしながら、重賞のレース結果を確認。

オーシャンSは久しぶりにタテ目を食う。

軸で買っていたブレイブスマッシュが粘り切れず。

まぁもし3着に残っても、人気トップ3での決着だから3連複の配当は見込めなかったのだが。

メラグラーナは強いのかどうか疑問に思っていたのだが、このメンバーであればやはり上なんだろうかな。

チューリップ賞はミスパンテールにしてやられる。

新馬戦上がりでいきなりはないと思ったのだが。

ソウルスターリングは期待通りの勝ちっぷりで、今後がますます楽しみ。

 

3.5(日)

朝から駅伝大会に出ることになっていたので5時に起床。

酒が抜けきらずに若干頭痛がする中、シャワーを浴びて気付けをし、荷造りをして6時過ぎの電車に乗る。

目的地は新木場、夢の島陸上競技場。

向かいの席の女子高生のスカートが短く、見えそうで見えないなとか思っていたらいつの間にか眠っており、気付いたら東京駅まで来ていた。

夢の島ではなく夢の国に向かう人たちと一緒になって京葉線へ。

京葉線に乗るのは、去年の夏、船橋競馬場に行ったとき以来かもしれない。

駅伝は所属しているランニングチームから参加したのだが、中途半端な走力評価をされた結果、Bチームの1区を任された。

今回は勝ち抜けたチームだけが出られる、ローカルだがほんの少しレベルが高い大会だった。

距離はコース上が工事されているとかで、なぜかの4.5kmという中途半端な距離。

スタートまでウォーミングアップをして汗をかきながら、必死に身体からアルコールを抜く。

酔いはなくなってきたが、前日の粉もんで胃がやられているせいか、3時間以上前に食べた朝食がきちんと消化されていない感じがした。

そんなことを言ってもいられず、とりあえず位置についてヨーイドン。

明らかに実力が違い、周りのペースについていけずに、あっという間に置いていかれる。

最後尾からスタートし、オーバーペースでヘタレて行く奴を2人ほど拾ったが、途中で腹痛と吐き気がしてペースダウンしてしまった。

最近の好調を発揮できず、結局ここ2戦のロード5kmと大して変わらない結果に終わってしまった。

まぁぶっちゃけ、レース前日に飲んだ私が悪いよね。

最後まで必死こいて頑張ったせいで、肺にかなりのダメージを受け、レースが終わってしばらくはフラフラだった。

その後、チームメイトを応援したりして、最終的に解散したのは昼過ぎ。

電車の中で、少し遅い昼食としてパンを齧る。

疲れたのだが、よく考えたらそもそも寝不足だし、帰りの電車もずっと爆睡していた。

最寄駅に着くと、夕食の買い物をしてから帰宅。

クリーニングを引き取ったり、米が少ないと思って買ったりしたので、疲れているくせに大荷物になってしまった。

帰宅したら荷物を片付け、部屋が汚れていたので掃除機をかけ、夕食の準備。

妻は友人とランチをして映画を観に行っており、夕食は帰ってから一緒に食べるとのことだったので、疲れた身体に鞭打った。

ある程度、料理の下拵えが終わってから、合間を見て重賞の結果を確認。

弥生賞はさっぱりの結果に。

外枠だからと思い切って切ったカデナが大外を回って勝ち、2着のマイスタイルはノーマーク。

本命にしていたグローブシアターは、馬群の中に埋もれたまま終わってしまった。

しかしいい加減、気持ち良く勝ちたいなぁ。

今年に入ってからは小さい勝ちしか拾えていない。

夕食は豚の生姜焼き、しめじとアスパラのサラダ、ワカメの味噌汁。

夕食後は久々に積んであった小説を読み、それから少しだけ嫁の相手をして眠りについた。

今週は出張が少なく、そうなるとどうしてもブログを書く時間がなくなるなと感じる。

人間らしさについて

「人間らしさ」とはなんだろうか。

普段、情が薄い人や感情表現の乏しい人などに対して、「人間味がない」と言ったりする。

「人情味がない」と言うならわかるが、「人間味がない」と言うと、まるで「人間らしくない」と言っているように聞こえる。

実際に、そういう感覚で使っている人もいるだろう。

つまり感情表現が豊かで、すぐ泣いたり笑ったり怒ったりする人の方が「人間味がある」と思われていたりする。

そういう意味では、ドラマ「家政婦のミタ」に出てくるあの家政婦などは、「人間味」あるいは「人間らしさ」の対極にあると言えるかもしれない。

 

しかし、その言い方は果たして正しいだろうか。

私が好きな作家の森博嗣氏は、エッセイの中で反対の主張をしていた。

曰く、親子の愛や異性との性愛、本能に基づく感情の発露というのは、動物にも備わっているものである。

それをして「人間的」というのは間違っており、それは「動物的」というに相応しい。

人間の人間たる所以、「人間らしさ」というのは動物にはない理性にある。

つまり論理的で合理的な判断を下す理性的な人間こそ、「人間らしい」と言える。

といったような内容だったと思う。

うろ覚えだし、私なりの解釈なので、違っていると言う人もいるかもしれないが、私自身はこの主張にとても共感したことを覚えている。

 

例えば、上記の主張に対して、「感情的でなく理性的であることは、人間らしいとは言えず『機械的』だ」と言う人がいるかもしれない。

しかし翻って考えれば、機械というのは人間が生み出したものである。

ある意味では機械やロボットというは、人間の能力の拡張であり、人間以上に人間らしい存在と言えるのではないだろうか。

感情のない、味もへったくれもないAIなどを「人間的」と呼ぶことに違和感を感じる人は多いだろうが、シンギュラリティが注目を集めることからわかるように、AIやロボットというのは人間を超えた、より人間らしく進化した存在と言えるのではないかと私は思うのである。

 

人間が動物であることは間違いない。

むしろその事実を忘れて、人間を特殊な存在と考えてしまうことの方が怖い。

しかし、動物の一種類であると同時に、やはり人間にしかない「人間らしさ」というのがあるはずである。

それはやはり「理性」だろう。

人間は経験や観察から世界の道理を少しずつ理解していき、それを応用することで文明を発展させてきた。

論理的思考抜きに、人間の繁栄はあり得なかった。

 

自分の感情を素直に表すことは時に必要だと思うが、それは原初的で動物的な行為だと言える。

その感情をコントロールして適切に処理することこそ、真に人間的な行為だと思う。

今の社会には人を抑圧するような物事やストレスが多く、その反動として泣いたり笑ったりすることが素晴らしいというような風潮が見受けられる。

もちろん抑圧された自己の解放は必要なのだが、それがそのレベルに留まっていては未熟なわけで、解放された自己を適切にコントロールする能力を身につけることが大切なのである。

 

多くの人の失敗というのは、多分に楽観的で、論理的でないことにより引き起こされる。

ゆっくり立ち止まって、考えてみることも時に必要である。

勝てない戦には、逆立ちしたって勝てない。

「足りない分は勇気で補え!」が許されるのは、フィクションの世界だけである。

でも、たまにそれで成功してしまう奴がいるから、みんな夢を見てしまうのだが。

成功率0.01%でも、1万人に1人は成功するから。

その陰の9999人の骸は、多くの人には見えないのである。

 

話が逸れた。

言いたかったのはそういうことでなく、もっと皆が「人間らしく」なりましょう、ということである。

それぞれがの人間が本能の赴くままに生きていたら、その意思がぶつかって争いが生まれる。

どうやったらお互いに共存できるか、理性でもって、頭をひねって考える必要があると思うのだ。

それこそ、AIに世界を統治してもらったら、争いなんて起きない社会になるのではないかと思う。

そういうのを「管理社会」と言って恐れる人もいるが、そもそも他人に迷惑をかけたり、犯罪を犯したりする奴がいるのは、自分の行動を適切に管理できていないことによるものである。

本当に「管理社会」が嫌なら、せめて手前の面倒くらい手前で見ろ、と言いたい。

しっかり「人間らしく」生きろ、と言いたいところである。

卒業式はいつもより派手に

今週のお題「卒業」

 

なんかこのお題、去年もあった気がする。

MTGからの卒業 - 異呆人

まぁ時期ものだし、繰り返し使うことが悪いことだとは言わないが、「はてな」ももう少し工夫してほしいものである。

さて、昨年は当時までプレイしていたカードゲーム、「Magic the gathering」をやめたという話を書いた。

今年は普通に卒業式の話でも書こうかと思ったが、卒業式の思い出というものがほとんどない。

なんというか、昔からそういう節目に必要以上の感慨を感じない人間なのである。

小学校の時は、卒業式が終わったら記念撮影などせずにさっさと家に帰って、同級生や教師の不興を買った。

だって卒業するということは、もう学校に来なくていいということなのである。

これほど嬉しいことがあろうか。

一刻も早く学校を離れたいと思うのが普通だと思う。

 

中学校の時は、記念写真を撮るために近くの公園に向かう生徒の群れに混じってみたが、結局一枚の写真を撮ることもなく早々に場を後にした。

高校の時もあまり覚えていないが、同じような感じだったと思う。

大学の時もあまり覚えていないが、同じような感じだったと思う。

というか、本当によく覚えていない。

きっと私にとって、卒業式というのは特別なものではなかったのだと思う。

それは確かに節目ではあるが、別に人生の終わりではない。

そこからさらに人生は続く、一つの終わりが一つの始まりになってしまうのである。

 

高校の時のことで覚えているのは、私が遠方の大学に行くことになるからと、大勢が携帯のメールアドレス交換を申し出てきたことである。

当時はまだJ-Phoneが存在していて、カメラ付き携帯が出始めて流行りを見せていた頃だった。

私は携帯など持っていなかったし、必要だとも思わなかったが、さすがに飛行機でないと実家に帰れない土地に行くのに、電話もなしというわけにはいかない。

卒業前の数週間だけ日雇いのバイトをして、なんとか携帯を手に入れたのだった。

その慣れない携帯で、友人たちと初々しくアドレス交換したことは懐かしい思い出である。

 

大学の時は、空港への見送りが印象に残っている。

南国から新卒後の赴任地の雪国へ旅立つことになっていた。

空港には部活の後輩たちとゼミ仲間が大勢見送りに来てくれていた。

手荷物検査のゲートをくぐる時、後輩に名前を呼ばれて振り返ると、いつそんなものを準備したのか横断幕を掲げていた。

そこには「今までお世話になりました。社会人になっても走り続けてください。雪をも融かす炎のランナー」と書かれていた。

かなり恥ずかしい。

恥ずかしいが、嬉しかったことはよく覚えている。

 

そんな思い出くらいしかないのだが、それよりもはっきり覚えている他人の卒業式がある。

それは大学の2つ歳上の先輩の卒業式のことである。

ちょっと変わった先輩というか、悪い人ではないのだがクセがあって周りから敬遠されていた先輩がいた。

面倒見のいい人で、皆お世話になっているのだが、どうにも空気が読めないというか、場を凍りつかせるようなことを平気でする人なのである。

その先輩が何を思ったか、「卒業式の後、コーラかけをやりたい」と申し出てきた。

やるならビールかけだろう、野球の優勝チームがやるみたいに。

ただ私たちの部活は体育会系のくせに、それほど酒好きがいないという珍しい集団だった。

ゆえにコーラかけという発想になったと思われる。

あとはその先輩がコーラが好きだったこともあるかもしれない。

コーラをかけ合うなど、想像しただけで凄惨な事態が引き起こされる。

しかし悪ノリOKの当時の私は、その要望を快く引き受けた。

それどころか、準備したコーラの中に、しれっと「ルートビア」を混ぜたのである。

 

ルートビア | A&W沖縄

ルートビアとは、沖縄にあるファストフードチェーン「A&W」(現地の人は「エンダー」と言う)で売られている炭酸清涼飲料水である。

A&W」の店内だけでなく、「A&W」のロゴが入った缶が普通にスーパーで売られている。

沖縄であれば、安価で容易に入手できる。

このルートビアの最大の特徴は、その香りにある。

ハーブの香りと言えば聞こえがいいが、私は最初に飲んだとき「ハッカ」を連想した。

あのサクマドロップに入っている白いドロップと同じ味である。

いや、味というか、香りがきつすぎて味がわからない。

上で引っ張った「A&W」のHPでは、「毎日おかわりフリー」と書かれているが、これをおかわりする人間の気がしれない。

アンサイクロペディアでは、「飲むサロンパス」と表現されているが、なるほど言い得て妙である。

 

悪ノリした私は、これを2本ばかりコーラの缶の中に混ぜた。

缶を見ればすぐにわかるのだが、コーラかけをするテンションの人間がそこで思いとどまるわけはないだろう。

そう踏んでの暴挙である。

当日、卒業式を終えて体育館から出てきた先輩を、私たちは迎えた。

まずはコーラかけの準備ということで、汚れてもいいジャージに着替えていた。

そのままの勢いでスーツで実行しないあたりは、この先輩らしく用意周到である。

そして着替え終えたあと、コーラかけが実行される。

私はコーラを手にしたものの、少し離れた場所に陣取って様子を眺めることにした。

威勢の良い掛け声と同時に、一斉にコーラをかけ合う先輩と後輩たち。

そして広がるコーラの甘い香りと、それを遥かに凌駕するルートビアの爽やかな湿布臭。

「誰だ!ルートビアを混ぜた奴は!」という怒声が響き渡る。

 

いや、ほんと、すいません。

盛り上がると思ったんですよ。

やっぱり卒業式だから、いつもより派手にいきたいじゃないですか。

コーラがけとか、ヌルいと思うんですよ。

やっぱり、ルートビアくらい、いっておかないと。

いやでも、ほんと、すいません。

この場を借りて、お詫び申し上げます。