異呆人

ノンフェータルなペシミズム

論点は「実名か匿名か」ではない:京アニ放火事件の報道について

京都アニメーション放火事件の報道は喧しかった。

普段、TVのニュースやワイドショーを見ない私でもそう感じたくらいだから、報道媒体に接する機会が多い人はなおさらだったろうなと思う。

特に話題になっていたらしいのが、被害者の実名報道の如何についてである。

発端は、事件の重大性や被害者遺族の感情に配慮して実名報道を遅らせたことにある。

これに対し、マスメディアが実名の公表を求め、最終的には実名を報道した。

そんなマスメディアに対する批判がネットやSNSなどで噴出していたようである。

そろそろ事件に関する報道なども落ち着いているように見受けられるので、自分の意見を一筆記しておこうかと思う。

 

事件被害者の実名報道自体は、そもそも必要なものだと私は思っている。

まず、報道でしかその事実を知り得ない人たちがいる。

被害者が生きていれば伝えたい人にだけ伝えることができるだろうが、故人となっていればその事実は遺族の知り得る範囲の人にしか伝わらない。

遺族がその交友関係をすべて把握しているわけではないだろう。

もちろん遺族の意向が重視されるのは当然なのだが、もしかしたら遺族以上に故人が大切にしていた人だっているかもしれない。

どこまで伝えるべきかの判断は、結局、残された側の勝手な都合である。

それなら受け止め方は受け止める側に任せ、事実は事実として公表されるべきではないかと思う。

 

それから、これはマスメディアでも言われていることだが、被害者の情報を匿名にしてしまうことで、社会における事実の受け止め方が軽くなるのではないかと思う。

故人となった人にはその人なりのストーリーがあるわけで、それをつまびらかにする必要はない、というかむしろしない方がいいとは思うが、「どこかの誰かが亡くなりました」では社会はその喪失の価値をきちんと受け止められないのではないだろうか。

受け止め難い事実も、きちんと受け入れることが前に進む足がかりになる。

被害者遺族の感情に配慮して実名報道を遅らせること自体は、その受け入れる時間を作るという点で評価できると思うが、そもそも実名を報道しないということは社会全体が死を受容する姿勢を失うことに繋がる。

 

本来、今回批判されるべきは、これまでもそうなのだが、マスメディアの取材の仕方である。

実名報道されてしまうと、遺族となった人に取材が押し寄せる。

根掘り葉掘り、故人の情報を問われる。

ストーリーが欲しいのだろう。

大衆ウケするようなストーリーが。

そういった事実の見栄えだけを重視するようなマスメディアの報道姿勢、取材方法こそ批判されるべきで、ことの焦点は被害者報道が実名か匿名かにはないのである。

それが結局わけもわからず便乗して批判するような輩を増やしてしまい、要点がうやむやになり、批判に対するアンチを生んでしまうのである。

 

どこにも書く機会と時間がないまま、時間が流れ去ろうとしていたので、メモ代わりに。

酔い歩く

友人の結婚パーティで地元に帰っていた。

夜行バスで向かい、夜行バスで帰ってくる強行軍。

別段そうする意味はないのだが、夜行バスでぶらっと行きたい気分だったのと、ついでに節約といった具合である。

パーティ自体はアットホームで良かった。

中学、高校と付き合いのある友人だった。

ことさらウマが合うとか、深い付き合いをしていたわけではないが、地元に帰ったときは飯を食いに行ったりするし、私の結婚式にも出てもらったし、仲の良い方だとは思う。

ただ中学や高校時代の同級生たちで呼ばれていた人は少なかったので、よくある同窓会的な雰囲気は少なかった。

その分、彼が大学を卒業してから交友を結んでいる人たちが多く、彼の違った一面を見た気がした。

面白かった。

 

パーティは昼からだったので、夕方頃には時間が空いた。

深夜のバスの時間まではたっぷり時間がある。

もとよりそのつもりで、たまにはブラブラと町歩きでもしてみるかと思っていたのだった。

妻と子がいればなかなか一人で出歩く機会はない。

それも、帰る必要がないなどというシチュエーションはそうそうない。

暮れゆく街を気の向くままに歩く。

久しぶりに風俗でも行こうかと思ったが、その辺りまで行ってなんとなく気が向かなかったのでやめた。

薄暗い花街には、買う男と売る女が相手を求めて彷徨っている。

それぞれにストーリーのある人生が、弾かれたビリヤードの球のようにぶつかり合って交わる。

望んでそうしているものもいれば、仕方なくそうしているものもいるのだろう。

男も女も。

 

ずっと歩き続けるには少し暑い。

ただ日陰でとどまっている分には過ごせないことはない。

残暑。

日はすっかり暮れていた。

そこそこ時間がたったはずだが、自分がまだ酔っているのを感じる。

気分は悪くない。

何か食べたかったが、腹は減っていない。

飲みたかったが、これ以上飲むと悪酔いしそうだった。

ほんの少し食べ、ほんの少し飲めるような店はないかと歩き回ってみたが、休日の繁華街の飲食店はどこも混雑していてカウンターで一人ゆっくり食事をする雰囲気ではなかった。

所在なく、高架下のガードレールに腰掛ける。

気分は悪くない。

 

週末の夜、道行く人の表情は明るい。

タピオカドリンクを飲む女子高生や、腕を組んで歩くカップルや、cafe&barで女子会に興ずるご婦人たち。

気分は悪くない。

が、言いようのない虚無感が立ち現れる。

面白くない。

何かが足りない。

妻は優しいし、子は可愛い。

仕事は忙しいが、忙しい以外の不満は少ない。

自分で選んだ道だし、不満は少ないので見て見ぬ振りをしていたが、やはりずっと空きっぱなしの穴は塞がってはいないらしい。

何が不満なのか問い、答えがないことをもって満足としていたが、そんなわけはないのだ。

一人でいるせいか、程よく酔いが回っているせいか、隠していたものは存外素直に顔を出すものだなと思った。

 

面白くなければ、面白くすればよい。

そう思っていろんなことに手を出して、いろんな場所に移り住み、気ままに暮らしていたが、それでも何も変わらなかった。

結婚して子供ができれば変わるかと思ったが、そんなこともない。

そんなこともないことを認めたくなかったから、これでいいと自分に言い聞かせてきた。

いや、実際に何一つ悪いことはないのである。

ただ私がこの空虚を抱えていれば、周りは幸せだしすべて上手くいく。

目の前を行く人の流れは絶えない。

同じような感覚を抱えている人もいるのだろうか。

いるだろう、たぶん。

出会ったことはないけれど。

 

時間が来て、バスに乗って、家に帰る。

自分が思っているより疲れているのか、少々頭が痛くなる。

そしてすぐに眠りに落ちる。

また日常に戻るのだ。

そして目の前の物事をこなすうち、そんなことを考えている暇はなくなる。

それでいい。

そうでないと生きていけないだろう。

大人になって思うこと

毎年、甲子園を少しだけ見る。

「少しだけ」というのは、自分から見ようとして見るのではなく、「たまたま誰かがTVで見ているから一緒になって見る」ことしかしないからである。

だいたい、盆休みに実家に帰ったときか、そこで祖父母の家を訪れたときか。

スポーツとして野球は嫌いではない。

小学生の頃は地域のソフトボールチームに所属していたし、人並みに将来の夢がプロ野球選手だったミーハーな時期もある。

ただ、わざわざTVをつけて見ようとか、現地観戦しようというほどの熱意はない。

というか、野球に限らず、ほとんどの物事は私にそれだけの熱意をもたらさないし、湧かさない。

さておき、高校生の頃は運動部に所属していたせいもあり、高校球児たちの1試合にかける思いというのはよくわかる。

「負けたら終わり」という状況が彼らを貪欲なまでに勝利に駆り立てるし、それがドラマを生むから見ている方もプロ野球などとは違った興味の持ち方をする。

でも、実際に人生においてそんな場面はそうないのだという、一種冷めた目線も持ちあわせてしまう。

高校3年生の甲子園が終わっても、彼らの人生の多くはまだその先の方が長い。

人生においても、「この仕事が終わったら」「結婚したら」「子育てが終わったら」、そこで「はいお終い」「もう楽をしてもいいですよ」「何もしなくてもいいですよ」ということはない。

何かを終えても次が始まったり、次がなくてもとりあえず続くのである。

死ぬまでは。

だから甲子園を見るたび少しだけ羨ましくなる。

そこを最後と思って取り組める何かがあることに。

 

最近、ここではない場所で少しだけ文章を書いている。

散文だったり、短歌だったり、詩だったり。

本当はもう少し長い文章を書きたいのだが、私が遅筆なうえに時間がないので、まだそこまでは踏み出せていない。

別に何かを目的としているわけではないので、のんびり気が向いたときに書いている。

ここが日常の延長のようなエッセーや、ロジカルな雑記や批評もどきが多いとすれば、少し日常を離れた感傷的な思索や、創作よりのものは分けようかなと思った次第である。

そんなわけで久しぶりに短い詩のようなものを書いてみて、小学生の頃のことを思い出した。

3年間ほど担任を持ってもらった教師が詩が好きで、子供たちにも書かせて専門誌みたいなものに投稿していたからである。

詩を作ることより、詩を作るということを教育の場で行うことに興味があったのかもしれないが。

その頃は、何かテーマを与えられて、それについてうんうん唸りながら考えて書いていた記憶がある。

上手く書こうと思って、そのために表現や流れをどうこうしていた気がする。

詩作はいわば課題であり、その課題を上手にクリアすることで、教師に褒められたかったのかもしれない。

 

今、そんなことを考えずに、ただ思ったこと、感じたことを、凝縮された言葉にしてみると、本来創作というのはとても自由なものなのだなと思わされる。

感情をどう言葉に表現するか。

それは思ったことをそのまま投げ出すことではない。

上手に、お洒落に書こうとすることでもないと思う。

短い言葉でどうやって心情を伝えるかということは、事実を正確に伝えることとは異なる。

実際の感情というものは、言葉にした段階で、それがその感情をどれだけ事実として端的に表していても、その何割かは失われてしまう。

ある意味で創作というものは、その感情をできるだけナマに近い形で、それでいて伝えるという意図を持って、言葉にすることなのではないかと感じている。

その方法は無限にあって、そこに制約がないこと、仕事でもなんでもなく気楽にできる状況に自由を感じるのである。

感覚を全面に出して伝わらなくても意味がないし、説明しすぎて感覚が損なわれるのも興をそぐ。

いろんな経験をしてから、いままで触れたものにあらためて触れ直すというのは、意外と面白いかもしれない。

昔読んだ本でも再読してみようかな。

ロングロングバケーション

夏休みだった。

毎年書いている気がするが、本当はうちの会社には夏休みはなく、「計画休暇」とか「連続休暇」とか言われている。

要は一般的に夏休みと言われるような時期に、「5連続営業日の有給休暇の取得」が義務づけられているだけである。

「夏休みっぽく、有給を使いなさい」という、なんとも押し付けがましい制度である。

そうは言いつつも去年までは曖昧さが許容されていて、きちんと5連続でなくても「まぁよし」とされていたし、なんなら有給休暇でなく振替休日から消化するよう推奨されていたりしたのだが、今年は法だか政令だかが改正されて何やら有給取得が義務づけられたらしいので、「例外は一切認めない」となってしまった。

別にどちらでも良い。

休みたくないわけではない。

私が休んで困ることがあったとしても、困るのは私ではない。

ということで、遠慮なく休ませていただいた。

何の日だか知らないが祝日が1日混ざったので10連休である。


前半は実家に帰っていた。

私の親族では、お盆の時期は毎年父方の親戚一同で墓参りに行くという習慣がある。

年々、結婚や出産で親族が増え、今や大人15名、子供7名という大所帯である。

墓参りにをし、近くに所有している「家」(父方の親族の本籍がある家)の庭でバーベキューをするのが近年の慣いである。

今年は子供用のプールなぞ広げてみたりしたせいで、非常に賑やか(騒々しい)集いとなった。

私も初めて6ヶ月になる子を連れて行ったが、他の大人子供にこれでもかと構われ、楽しそうでありながら半ば疲れているようでもあった。

今は従兄弟家族まで皆が集まっているが、今後どうするかが課題である。

予定を合わせるのも大変。

それぞれの家族がそれぞれのタイミングで墓参りすることになるのだろうか。

他には母方の祖父母を訪れたり、父母と子供服なんぞを買いにショッピングに出たりしていた。

地元を離れているのでなかなか孫に会わせてやれない。

親孝行の真似事である。


後半は家でのんびりしたり、子を連れて遊びに出かけたり、少しだけランニングしたりした。

なかなか普段はできないので、休み期間中は3食の準備や掃除・洗濯など、家事はほとんど行った。

家事は嫌いではない。

手際良く片付けていけると気持ちいい。

なんなら専業主夫になりたい。

もう叶わぬ夢ではあるが。


子は、この休み期間中にずり這いを覚えた。

なぜだか知らないが、実家に帰省して戻ってくるとできるようになっていた。

家中移動し放題である。

子は、普段はリビングに転がしているので、その辺りの家具やら何やらにはクッション材を貼り付けてある。

ただ、リビングとダイニングの間仕切りがガラス戸で、これの取り外しが建て付けが悪くなってできなくなっている。

ガラス戸を閉めてダイニングに行けないようにすると、ガラス戸に体当たりして危ないので、戸は開けっ放し。

ダイニングにも這って移動できてしまうが、そこまでのリスクヘッジは物理的に難しい。

そこで室内で使えるベビーサークルを買った。

なんだか檻に閉じ込めるみたいで気が引けなくもないが、安全第一である。

幸い、最近は1人でおもちゃで遊んだりするので、そこまで広くなくても機嫌を損ねることは少ない。

あと、いつの間にか哺乳瓶を自分で持って飲むようになっていた。

成長の速度に目を見張る。

人間とはかくも面白いものか。


そんなこんなで長く休んだら、久しぶりに会社に行きたくなくなった。

普段はわりと切り替えられるのだが、仕事の内容が重くなったせいか、久しぶりに憂鬱だった。

まぁ、出社したら普通に仕事をしていたけど。

パフォーマンスには影響しないらしい。

目の前に処理しなければならないタスクがあれば、スイッチは自動的に入るのが、私という人間のようである。

便利にできている。


そんなこんなでわりと普通に過ごしている。

この日常なら胸を張って「普通」と言えそう。

面白くはないけど。

そんなものでしょう。

涼しい顔してるとよく言われる

私は徒歩1時間くらいまでなら歩けると思っている人で、徒歩30分までなら躊躇なく歩く。

30分を超えると、その後にやることや当日の天候などを考慮する。

まぁ、大抵の場合は結局歩くのだが。

これはもちろん私が交通費をケチるからということもあるが、単に陸上競技をしていたから体力馬鹿だということでもある。

会社内では、体力に任せた仕事ぶりとそれでも体調に支障をきたさないことから、「ターミネーター」と渾名されている。

いや、これは私の冷徹無比さも手伝っているが。


先日も土日に出先での仕事があった。

平日に休みが取りづらい業務状況にあるので、土日出勤すると「3分クッキング」くらいの手軽さで12連勤が完成する。

まぁ、「3分クッキング」は3分の尺で見せているだけで、本当に3分で作れるわけではないが。

さておき、その出先が非常に不便なところで、電車で3時間とさらに駅から徒歩30分かかる場所であった。

社内の他の人間たちは車で移動することをしきりに勧めてきたが、車だと渋滞に巻き込まれる可能性があるし、折しも当地では花火大会の予定まである。

たとえ車で移動するにしても、会社まで1時間半電車に乗ってそこから車で1時間半かかる。

どちらにせよ面倒。

だったら乗ってる間に好きに時間を使える電車の方がいいというのが私の判断である。

もちろん交通費もその方が安いので、会社の経費にも優しい。


とはいえ、この時期に30分歩くと流石に暑い。

だから最初から汗だくになってもいい格好で行って、現場に着いてから仕事着(ビジネスカジュアルみたいな服装)に着替えた。

予想通り汗だくになったが、心地良かった。

最近ランニングが出来ていないし、内勤ばかりで歩く距離も減っていたので良い運動になったと思った。

そんな帰り道にtwitterなんぞを眺めていると、熱中症の話題が喧しい。

自分がその暑さの中、往復1時間歩いておいて言うのもなんだが、そりゃあ死人が出てもおかしくないくらい暑い。

体力に自信がない人は不要不急の外出を控えることを求められるレベルだろう。

私は暑い中をランニングするという気がふれたようなことを学生時代に繰り返していたので、文字通り鍛え方が違う。

その点においては常人ではない。


そんな私はさておいたとしても、また昨今地球温暖化が叫ばれる状況にあったとしても、現代人は暑さに弱くなったのではないかと思う。

これは軟弱になったとかそういう批判めいたものではなく、単に暑さに触れる機会が減ったのではないかと思うのである。

自宅でも職場でもお出掛け先でも、どこでも空調が完備されているのが普通である。

熱波に触れるのは駅までの数分間、車で移動する人ならもっと短い時間だろう。

そういう暑さに触れない環境が一時的ならまだしも、常からずっとそうなのである。

子供たちは熱中症が怖いからと、外で遊ぶ時間や場所は制限されるし、そうやって暑さから保護された状況を常として生きていくのである。

単に「気温が上がりました」というだけではない気がする。


繰り返すが、私が言いたいことは「だから空調を使うのをやめて暑さに慣れましょう」ということではない。

これはただの雑感である。

この「クソ」が付きそうな暑さの中、冷房をやせ我慢する方が狂気の沙汰である。

自然環境的にも社会環境的にも変化しているのだから、その変化に対応することが人間に求められることである。

「冷房をやめて暑さに身体を慣らせ」という精神論は、動物愛護を唱えてヴィーガンを標榜する人たちと同じくらい胡散臭い。

文明の利器を上手に利用して体調を優先してもらいたい。

地球温暖化などは考える人が考えて、最終的にはテクノロジーとやらで何とかなるだろう。

どうにもならなくても人類が滅ぶだけの話である。


閑話休題

最近、小型の扇風機を手に持って歩いている人をよく見かける。

主に女性。

つまり片手に日傘、片手に扇風機というスタイルである。

あれは流行りか何かだろうか。

ものすごく違和感を感じるのだが、令和の時代のスタンダードになるのかもしれない。

個人的には片手の扇風機がすごく鬱陶しそうなのが気になる。

あれを持って歩くのは大変じゃないだろうか。

しかもお世辞にもあまり涼しそうに見えない。

コストとパフォーマンスのバランスが取れていないように感じる。

あれを持ってダラダラ歩くくらいなら、キビキビ歩いて外にいる時間を少しでも減らした方が良さそうなものである。

保冷剤とセットで使うと効果があるという話も聞くが、それなら保冷剤をタオルか何かで首の後ろにでも巻いておけばよい。

絶対にその方がパフォーマンスが良い。


まぁ、こんなことを常から言ってるから、どこに行ってもしちめんどくさいやつだと思われるのだが。

でも言いたくなるから仕方ない。

このブログだって、そのためにあるようなものである。

だからみんな手持ち扇風機なんてやめて、保冷剤を首に巻いて歩こう。

一周回って新しいと褒められるかもしれない。