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異呆人

毒にも薬にもならない呟き

「森友学園」問題なんてワイドショーのネタにしかならない

森友学園」問題が盛り上がっている。

先日はその主役と言える籠池さんの証人喚問まで行われた。

こんなことでわざわざ参考人招致ではなく証人喚問まで行うのはどうかと思うが、自民党もさっさとボロを出してもらって幕引きを図りたいのかもしれない。

それは、それだけ「シロ」だと自信があることの裏返しでもある。

他にも国会で決めるべきことはたくさんあるので、さっさと終わらせたらいいのにと思う。

ワイドショーのネタとしては格好だろうが、問題の本質自体は大したことではないと私は思う。

以下、問題点の整理。


①国有地払下げにおける値引き額の妥当性、及びそれに関する政治家の関与

地中からゴミが見つかったので、土地の代金が8億円も値引きされた。

10億だったものが8億も値引きされるなど、一般市民からすれば納得出来ない。

しかし値引きをしたのは一般市民ではなく、当該部署の役人である

彼らにとっては8億円の値引きなど日常茶飯なのかもしれない。

値引き額は、ゴミの埋まっている深さや土地の面積などを計算式にして弾き出したようである。

計算の根拠となる数字が大雑把で、杜撰なお役所仕事だったのだろうが、法令的にはグレーからシロのラインではないだろうか。

もったいないとは思うが、大騒ぎするようなことでもないと思う。


あと疑われているのは、その値引きにあたっての政治家の関与である。

口利きやそれにあたって贈収賄があったのであればアウトである。

今のところ、これに関しては証拠がない。

むしろ籠池さんに対して明確に断っている人がほとんどである。

随分と露骨なやり方をする人だから、相談を持ちかけられる側だって「こいつはまともじゃない」と思うのだろう。

証人喚問では何人かの政治家の名前を挙げたようだが、「相談した」というだけである。

相談した相手が何らかの働きかけを行ったかは、当人に聞いてくれと籠池さん自身が言っている。

これでは証拠にも何にもならない。

事実がどうあれ、当該政治家が「働きかけなどしていない」と言ってしまえば仕舞いである。

そもそも籠池さんの「お願い」を聞いたとして、どんなメリットがあるだろうか。

そんなに影響力のある人に思えない。

金が絡んでいる可能性はあるが、それなら「死なば諸共」と籠池さんが追い詰められて暴露するかもしれない。

その可能性は低いだろうが。

個人的には、値引きは瑕疵のある土地をめんどくさがって役人が投げ売っただけだと思う。

そんな事情は籠池さん自身は理解しておらず、「働きかけがあった」と誤認している可能性はある。


②建設費が異なる3つの契約書の存在

たぶん、これについては籠池さんが「クロ」だろう。

証人喚問でも「刑事訴追の恐れがあるから回答できない」と自分で言っている。

契約書を作成した建設会社が「頼まれて仕方なく作った」と言っており、それが真実の可能性が高い。

建設会社が嘘をつく道理はない。

真実の建設費がわからなくならないよう、覚書まで交わしているのたがら間違いないだろう。

建設会社からすればとんだとばっちりで、いい迷惑だろう。

実際、建設費の支払いが滞っているとして、抵当に入っている森友幼稚園を差し押さえたようである。

偽の金額が入った契約書で審査を通そうとしたり、補助金を受けようとしたのであれば刑事事件になる。

それが間違いない流れとなっているので、籠池さんは半ばヤケになっている可能性がある。

悪いことをするのはいけない。

そしてそんな不届者の経営する小学校の名誉校長を引き受けようとした首相夫人や、頼まれて講演に行こうとした首相自身は軽率と言われても仕方ない。

しかし、政治責任があるかと言われればそんなことはないだろうし、あくまで籠池さん自身の問題である。

やはり大騒ぎするほどのことではない気がする。


論点などこんなものなのに連日テレビでああだこうだ言っているのは、とても滑稽だなと思う。

ただ一緒になって盛り上がりたいだけの野次馬根性、数字がほしいだけのメディアの思惑が透けて見える。

深刻な顔をしてコメントをするアナウンサーや識者を見ると、この人たちは本当はバカなんじゃないかと疑ってしまう。

まぁ個人的には、籠池さんの教育者としての資質がどうかと思うが。

あの運動会で園児に宣誓させている動画を見て、言いようのない気持ち悪さを感じた。

価値観の違いと言ってしまえばそれまでだし、良い悪いは難しい問題かもしれないが、そんな理屈を通り越した不快感を感じた。

大してものを理解できない児童に、あんな政治的に偏ったセリフを言わせるとか、まともな人間のすることではない。

恐らく知らずに入園させてしまい、同じように感じた保護者がいたから、今回の騒動に至ったのだろう。

籠池さんは小学校を建てる前に、自分がもう一度小学校から学び直した方がいいのではないだろうか。

スポーツにおける公平性

随想

スポーツが好きだ。

見るのもプレーするのも好きである。

得意不得意は別として、大抵のスポーツはプレーすることを楽しめる。

やりたくないと思うのは、ことさら苦手な水泳くらいなものである。

知能系のゲームも好きだ。

実際にルールを把握しているもの、プレーできるものは多くないが、将棋やオセロや麻雀は嗜む程度に楽しめる。

要は勝負事が好きなのである。

これは理屈ではない。

闘争心とか攻撃性とか、そういった本能に近い衝動を満たしてくれるような気がする。

私は自分自身を、見た目や物腰以上に攻撃的な人間だと評価している。

勝てば嬉しいし、負ければ悔しい。

それは人間に本来的に備わっている原始的な感覚で、きっと生きるために必要な感覚だったのだろう。

 

いくら闘争心や攻撃性が人間に本来的に備わっているからといって、他人を無闇に攻撃することは理に適わない。

人間には理性があり、理性的に考えれば同族を攻撃することは非合理である。

種族としての繁栄を妨げることになるし、無用な争いは互いに消耗するだけである。

そうとはわかっていても抑えられないから、人は戦争を続けるのだろう。

人間というグループの内側にさらに小さなグループを作って、身内と外敵をわけてまで争う。

そして公にそんな争いができない社会で生きるとなれば、エネルギーのやり場がなくなる。

スポーツや知的ゲームというのは、そんなエネルギーの捌け口として成立したのだろう。

でなければ、こんな非生産的な行為が今日まで続くことはなかったと思う。

 

だからスポーツにしろ知的ゲームにしろ、勝ち負けをつけることに意味がある。

「オリンピックは参加することに意義がある」などと言われたりするが、それは一面的には正しいが、概ねただの綺麗事である。

勝たなければ意味がないとまでは言わないが、勝つことを目指さないのであれば意味がない。

それがスポーツというものである。

別に皆がスポーツをプレーするのを好きになる必要はない。

そういった形でのカタルシスを必要とする人だけが楽しめばいい。

もしくは勝ち負けのつかない形で楽しめばいい。

ランニングや水泳やスキーなら、ただプレーすることもできる。

ただしそれはスポーツというより、ただ身体を動かす「運動」だと思うが。

 

スポーツが勝負事だとして、問題は何をもって勝ち負けをつけるか、どのように公平性を確保するか、ということである。

スポーツでは同じ土俵に立つためにルールが設けられる。

だがスポーツとしてのルールを守っていれば公平かというと、そうとは言いきれない。

ドーピングの問題、器具の問題などがある。

もっと言えば、人種や成育環境によって身体能力に差がある。

よほどの幸運が重ならない限り、マラソンで日本人選手がケニア人選手に勝つことはないだろう。

いやもし「生まれもったものは変えられないのでOK」ということにするなら、例えば高地トレーニングなどはドーピングに類するものにはならないだろうか。

「高地トレーニングはその気になれば誰でも取り組める」と言われるかもしれないが、薬物によるドーピングだって、その気になれば誰でも取り組める。

身体への悪影響を問題にするなら、高地トレーニングだって悪影響がないとは言い切れない。

というか、身体的負荷の高いスポーツは、概ね健康にはよろしくない。

 

だからスポーツにおける公平性というのは、「出来るだけたくさんの人が妥協できる点」にまとめられることになる。

ときには数の暴力が発生するかもしれないし、声の大きな人が得をするかもしれない。

これは別にスポーツに限らない話であり、社会全体のルールに通じるところがある。

つまりある程度の不公平は「仕方ない」と見なされてしまうということである。

完全なる公平というのは確保しようがない。

なぜなら、もともと世の中というのは不公平にできているからである。

 

だから個人的には「パラリンピックってどうなのかな」と思う。

身体の障碍があるという時点で、すでに不公平に曝されている。

また障碍の程度も様々である。

それをハンディキャップをつけてまで「勝負事」というステージに引きずり出すことに、果たしてどれほどの意味があるのだろうか。

ただ身体を動かす運動としてのスポーツではなく、順位を競い合う競技にする意味はなんだろうか。

 

私は「パラリンピック」という概念自体がなくなればいいのだと思う。

つまりパラリンピック種目を健常者も参加できるスポーツとして再整備し、普通にオリンピック種目にすればいいのである。

例えば、ブラインドサッカーや車イステニスなら健常者でもできる。

同じスポーツの同じルールの中で、障碍者や健常者の別なく戦えばいい。

遊びでやるならともかく、真剣勝負にハンディキャップという発想がナンセンスである。

ハンディキャップなくプレーできるようにルール整備すればいい。

それが無理なら、初めから勝負事にしなければいいのである。

 

そういう視点で考えれば、スポーツというのは学校教育、体育にはあまり向いていないのかもしれない。

勝負事の土俵に誰彼構わず引き上げてしまえば、苦手な人間はスポーツ嫌いにもなるだろう。

だがゲーム性を完全に排除してしまえば、体育など凄まじく退屈なものになってしまうだろう。

ゲーム性のある運動。

それが体育の狙うニッチなスペースなのだろうか。

難しく考え出すと、キリがない問題である気もする。

愛の概念の違い

恋愛・結婚

私には恋愛感情がない。

だから妻以外に誰かと交際したことはない。

大体の知り合いはその事実を知っているので、「なぜ結婚したのがその相手なのか?」と聞いてくる。

30年以上独り身を貫いたのに、あえてネットで知り合った女性と交際1年で結婚するからには、それだけ魅力的な相手か、何か理由があるはずだ、という発想である。

一般的な考え方に沿っていえばもっともな発話ではあるが、残念ながら私は一般的な人間ではない。

だから妻を愛しているかと聞かれれば答えは「Yes」だが、なぜ妻でなければならなかったかと聞かれれば特に理由はない。

 

妻のどこが好きかと聞かれれば、「真面目で素直なところ」と答えている。

「悪意がない」と言い換えることもできる。

楽をしようとか、ズルをしようとか、そういう発想が出てこない女性である。

例えば、小さな交差点でまったく車が来なくても赤信号はずっと待つタイプ。

ではそういう女性が他にいなかったかと言われるとそんなことはないし、他の女性ではダメだったかと言われるとそんなこともない。

たまたま私が結婚したいと思ったタイミングで最初に出会った条件に合う女性だった、というだけである。

身も蓋もない言い方になるが。

 

そんな言い方をすると私が変人だと思われるが、実際そうなので仕方ない。

私に言わせれば、それは単に価値観が違うだけである。

私が恋愛感情と愛情を区別しているというだけである。

私にとって愛情とは、「相手に対する行為の無償性」と言い換えることができる。

つまり「無償で相手に何かしてあげたいと思うこと」が愛情である。

だから見返りを求めずにすることは、友人のためであれ、家族のためであれ、職場の同僚のためであれ、見ず知らずの人のためであれ、愛情に起因する行為である。

多少の程度の差こそあれ、そこに大きな違いはない。

だから私は妻を愛するように、友人や家族や同僚などを愛しているのである。

差がないのだから、結婚相手が妻である唯一無二の理由などいらない

多くの他人と同様に愛せるだけで十分である。

 

強いて言えば、これから一番時間を共有する相手なので、私の受け入れられないNGラインを越えない必要はある。

あと、程度の差はなくても頻度の差はある。

私は彼女を愛し続けている限り、彼女のためになることをし続ける。

だからそれだけ尽くして悪影響が出ない女性である必要はある。

少なくとも、これらの条件はクリアしているわけだが、こんなことを見極めるのに2年も3年もかける必要はない。

「3年くらいは交際しないと相手のことがわからない」などと言う人は、3年経っても相手のことなどわからないと私は思う。

単に見る目がないだけである。

見る目がないのは、接する相手の幅が狭いからである。

限られた相手、同じようなタイプの人間とばかり触れ合っていると、人間に対する見識が深まらない。

あとは、自分や状況を客観視する能力に欠けるということもあるだろう。

 

可愛いだとか何だとかは、性愛である。

女性の場合どうかはわからないが、男性における「好き」というのは「ヤリたい」と同義だと思う。

男性という性が、生物としてそう出来上がっているのだと思う。

はっきり言えば、私は女性の7割くらいは「できる」と思っている(年齢層は限定するが)。

つまり性愛に関して、レベルの差はあれ7割の女性は許容範囲に入ってしまうのである。

その中で少しでもレベルの高い女性を探そうとすることなど、私にとっては不毛な行為に思える。

セックスなんて、生活に占める割合は極僅かである。

 

愛情にも性愛にも属さない、恋愛感情というものは私にはない。

きっとそんな訳のわからない理屈をこねている人間などいないのだろうが、私はそうやって理屈で生きている人間なのである。

だからその他大勢の言う「恋愛」は、私には一生理解出来ないだろう。

まぁ、それでいいと思う。

日記 <2017.3.13〜3.19>

日記

3.13(月)

内勤。

いつもの月曜日のスケジュール。

弁当は冷凍のハンバーグ、チーズオムレツ、あとは冷凍食品。

行きの電車が2度ほど緊急停車した。

時間が多少遅れるのは構わないが、立ちっぱなしで缶詰になっている間に腹痛に襲われ、次の駅で緊急下車。

朝から脂汗をたっぷりかく羽目になった。

いつもは一番に出社しているが、そのせいでこの日は朝一作業を後輩に任せた。

別に普段からそれで構わないのだが、どうもやっぱり自分でやりたくなるのが私の性である。

仕事は事務的な対応や打ち合わせやなんやに追われていたら、いつの間にか定時になっていた。

やるべきことがあった日だったとも言える。

翌日は休みを取る予定をしていたので、ホワイトデーギフトを同僚に預けて早々に退社した。

帰りの電車も立ちっぱなし。

前の席に座っていた中年男性が自分と同じ最寄駅だった。

こういう運がない日もある。

夕食はカツオの刺身、アジの竜田揚げ、舞茸入りニラ玉、豆腐の味噌汁。

カツオとアジが半額だったので、雰囲気だけ少し豪勢に。

アジの竜田揚げは、翌日の昼食にも取っておこうと思った。

飯を食ってから、久しぶりに胃痛に襲われる。

会社にいた時から若干痛んでいたが、夕食を食べてさらに悪化したよう。

同棲してから胃痛がなくなり、食生活が改善したせいかと思っていたのだが、たまたま治っていただけかもしれない。

しかめっ面をしながら洗い物やゴミ出しやなんやを済ませ、ちょっと休憩していたら1日が終わっていた。

まぁ明日は休みだし、ちょっとゆっくりしよう。

 

3.14(火)

振替休日消化。

7時過ぎに妻と同時に起床。

毎日こんなにたっぷり寝ているのかと思うと羨ましくなるくらい目覚めが良かった。

トーストとコーヒーなど、いつもの朝食の準備をし、いつもは妻がやってくれている洗濯物干しなども行い、朝のニュースだかワイドショーだかわからない番組を見ながら、のんびり妻を送り出した。

天気が良ければ少しランニングでもしようかと思ったが、小雨ぱらつく寒空だったので、1日中引きこもることにした。

予定のないオールフリーの1日。

「ひゃっほい」と、心の中で叫んでみたりする。

とりあえずスマホゲームをしたり、ブログ記事を書いたり、新聞を読んだり、結婚式のムービーを作ったりしていた。

趣味がランニングだと言えばアウトドアの人間だと思われるし、実際アウトドア活動も好きではあるのだが、自分自身は本質的にはインドアだと思っている。

学生の頃は何でもやるので、「ドアレス人間」を主張していたなぁ。

妻は弁当は不要とのことだったので、残ったアジの竜田揚げと梅干しで昼食。

妻もたまには味気ない弁当より、外食ランチでもする方がいいのだろう。

悪いことではない。

昼食後は買い物をし、夕食の準備をしながら、さらに駄文を書き連ねたり、ムービーをあれこれ弄り回したりしていた。

夕食はビーフシチュー、サラダ。

豚に逃げようかと思ったが、せっかくゆっくり夕食を作れる日なので牛にした。

これまたせっかくだから、米ではなく相方は安いテーブルロールで。

コトコト煮込みながら、カタカタとキーボードを叩く。

若干煮込み過ぎたことが失敗。

夕食を食べた後で妻にホワイトデーギフトを渡す。

チョコサンドクッキーは冷やしたらカチカチに固まってしまったようで、食べにくそうにしていた。

次回作ることがあるとしたら注意したい。

夜はムービー製作に四苦八苦していた。

やはりマニュアル本を一冊買うべきだろうか。

WBCは点差だけ確認して、あとは妻にチャンネルを譲った。

まぁ、今のキューバなら大丈夫だろう。

 

3.15(水)

出張1日目、福岡、山口。

5時台の電車に乗って出発。

羽田から北九州空港にフライト。

北九州に飛ぶときは、お気に入りのスターフライヤーを使うことにしている。

革調の座席が座りやすかったり、機内サービスのコーヒーにチョコレートがついてきたり、ビデオプログラムが充実していたり、地味ながらなかなか素晴らしい。

北九州空港からはレンタカーを借り、午前中に福岡は飯塚へ、午後は山口は下関、それから戻って小倉へ。

関門海峡を行ったり来たり。

山口県は地理的には中国地方に分類されるが、アクセスや経済圏から考えると九州と結びつきが強い。

それこそ小倉から下関なら電車でも車でもすぐだし、山口市あたりからでも博多に出るか広島に出るかなら迷うところだろう。

仕事は研修が中心で問題なく終了。

懸案事項があったのだが、どうも杞憂に終わりそうである。

未だ自分の仕事ぶりを過小評価しているところがあるらしい。

私は基本的に物事を悪い方悪い方に考えておくタイプである。

そこまで悲観的になる必要はないのかもしれないが、性分なのだからこれも諦めている部分である。

仕事を終えると、小倉のホテルで一泊。

ディスカウントスーパーで300円の弁当とカップ焼きそばを買って、久しぶりにたっぷり食べた。

どうも身体の調子がイマイチで、エネルギー不足の気配がする。

早めにホテルに入れたので、ブログを書いたりWBCを見たりしながらのんびり過ごした。

筒香の一発に興奮し、打者一巡の猛攻を見届けてから早めに眠りについた。

 

3.16(木)

出張2日目、福岡、佐賀。

8時間ほどたっぷり眠った。

朝食はホテルの朝カレー。

というか、ここのホテルは朝食にカレーとパンしかない。

そのぶん、朝食付きのプランにしては異様に安くて、さらに駅から近いことが最大の魅力。

レンタカー屋にも近いし、ポイント制度もあるので優秀である。

午前中に小倉で商談、午後から鳥栖大牟田と移動して商談。

難しい案件が続いて、どうなるか少し心配なところもあるが、できることを一つ一つ積み重ねて信頼関係を作っていくしかない。

夜には福岡空港から羽田へフライト。

家に着いたのは23時前。

週末は時間がなさそうなので、競馬の検討は飛行機の中と帰りの電車である程度済ませた。

あとは枠次第か。

帰ってからはシャワーを浴び、ほんの少しだけムービーをいじって、すぐに就寝。

あまりこだわり過ぎずにできる範囲でムービー製作をしようとしたら、なんとなく流れがわかってきた。

調子に乗って、手軽なレベルで式のオープニングムービーまで作ろうかと思ったり。


3.17(金)

内勤。

夜が飲み会の予定で弁当箱を持って行くのが嫌だったので、久しぶりに外食することにした。

昼は上司と後輩と、会社の近くの中華料理屋へ。

つい先日まではしょっちゅう通っていた店だったのに、結婚して同棲を始めてからは一度も来ていなかった。

2ヶ月ぶりくらいなのに、かなり久しぶりな気がした。

中国人が経営していて、安くてボリュームがあるが大して美味しくない店なので、さほど来たいと思わないが。

豚肉とキクラゲと卵の炒め物を食す。

中国人のオーナーが隣の席のご婦人客一行に、「レデイースメニューはあった方がいいか?作るならどんなメニューがいいか?」と聞いて、話し込んでいた。

マーケティング熱心なのは結構なことである。

仕事は目の前の事務作業を一つ一つ処理していた。

先々のスケジュールが立て込んでいるので、早め早めに動いておく。

上司から5月入社で1人採用できたと伝えられる。

私は今年度は「守備的シフト」を公言しており、ゆったりしたスケジュールで仕事をしていたが、昨年末くらいから来年度の反転攻勢に向けて動き出していた。

しかし、ちょっと本腰を入れて動いただけで大量に仕事が集まってしまうので、「部分最適より全体最適」と言いながらも、やっぱり1人回してほしいかなと思っていたところである。

どうやら今度入社する社員に、私の担当の一部を振ってくれるらしい。

素直に助かる。

仕事をほぼ定時で終え、夜は同僚宅で宅飲み。

同僚と一緒に池袋の東武でちょっとリッチなつまみを買い、あとはスーパーで惣菜とアルコールを買い込み、仕舞いは近くにあったドミノピザでピザをテイクアウトした。

持ち帰ればピザ1枚無料とか、宅配の費用がいかほどかと思い知らされるサービスである。

後輩や同僚の奥様を交えて、7,8人で盛り上がった。

お宅を拝借した同僚の2歳の娘さんが可愛く、皆で一緒になって遊びながら、安いワインをがぶ飲みしていた。

仕事抜きに楽しく飲める仲間がいるということは、ありがたい話である。

したたか飲んでから辞去した。

帰り道、バスが早いか電車が早いかという話になり、私が道の反対側のバス停まで時刻表を見に行こうと走って道路を横断したところ、盛大に転倒した。

横断歩道のない部分を走ったら、どうやらセンターラインのあたりが盛り上がって、段差になっていたようである。

酔った私は気付いたら転んでいた感じだが、見ていた同僚の証言からすると、ヘッドスライディングというか五体投地のような有様だったらしい。

両手甲と右膝に深めの擦過傷、左膝の打撲、右手小指と左肩にむち打ち。

かなり痛かったが、痛みに強いのとアルコールのせいで、ヘラヘラ笑っていた。

たぶんこうやって車に轢かれる酔っ払いが、世の中には相当数いることだろう。

案外、幸せな最期かもしれないと思ったりする。

少なくとも、私は満足して死ねそうだ。

脚を引きずりながら帰宅したら、深夜1時くらいになっていた。

妻には先に寝るようにLINEをしていたので、起こさないように傷の治療をしてから床についた。


3.18(土)

何も予定のない休日。

そんな日に妻と家で過ごすのは初めてかもしれない。

ただし私は二日酔いにつき、午前中は使い物にならなかった。

重い頭を抱えながら朝食を準備し、平らげたら頭痛薬を飲んでしばらく横になっていた。

妻は花粉症の薬をもらうために通院したので、ある意味ちょうど良かったのかもしれない。

「通院」と打って「痛飲」と予測変換が出てくるあたり、iPhoneのユーモアはなかなかのものだなと思う。

朝の情報番組を見ながらソファに寝そべり、頭痛が治まってからシャワーを浴びて、昼食と夕食の買い物に出た。

本当なら天気が良いのでランニングをしたいところだが、二日酔いと打撲した膝の痛みでとても走れそうにないので諦めた。

来週の10kmロードレースまでには回復しそうだが、良い感じでトレーニングを積めていただけに、ここで穴が空くのはもったいない。

腹筋や背筋などの体幹トレーニングでごまかす。

買い物から帰るとちょうど妻も帰宅しており、急いで昼食の準備。

ツナとほうれん草の和風パスタ。

デザートに、前日の飲み会で同僚の奥様から「結婚祝いです。奥さんと一緒にどうぞ」といただいたマフィンを食す。

有名店の品らしく、上品な味で美味しかった。

午後は妻は結婚式招待状の宛名書き、私はプロフィールムービーの作成。

字が驚異的に汚い私には、宛名書きの手伝いはできない。

プロフィールムービーは、自分のパートは粗方出来上がった。

ただし写真のスキャンを最低画質で行ったので、さすがに粗すぎて使い物にならない。

写真を高解像度でスキャンし直して、嵌め込み直す必要がある。

夕方に妻が加入している保険の営業員が来て、契約内容の説明をしていた。

私は妻から設計書を見せてもらって内容は把握していたので、同席せずに寝室で作業を続行。

追加契約の営業をかけられて、のらくらかわそうとする妻の様子を隣室で聞いていた。

こういうときにはっきりNOと言わずに気をもたせるところが、妻の悪いところだと思う。

そうやって様子を伺いながら、イヤフォンをして競馬の結果を確認。

今週からは馬連を中心に、小さく買う方向に再転換。

ファルコンステークスはナイトバナレットを本命、ジャッキーを穴にしてながしたが、見当外れの結果に。

残念と思って、気をとり直して日曜の重賞を買おうとしたら、珍事が発生していることに気付いた。

馬券の購入可能金額が増えている、つまり馬券が的中している。

頭に?をたくさん浮かべながらチェックすると、ナイトバナレットとボンセルヴィーソで買おうとした馬連が、マークミスならぬPATのチェックミスでコウソクストレートとボンセルヴィーソの的中馬券の馬連を買っていたらしい。

朝、二日酔いの頭で馬券を購入したせいだろう。

我ながらアホらしくて失笑してしまう。

懐的にはありがたいミスではあるが。

保険の営業員が帰ってから夕食。

レタスとエリンギのチーズリゾット、サバ缶トマトパッツァ。

トマトパッツァは朝の情報番組「サタデープラス」で紹介されていたものを、見よう見まねで作った。

カゴメの特集で「10分煮込むだけで簡単に作れる」と謳われていたが、話に違わぬ簡単さと味で驚いた。

カゴメの「基本のトマトソース」は安いし、応用が利きそうなので覚えておきたい材料である。

冷蔵庫の残り野菜も、リゾットと併せて少しは片付いた。

しかし、手の傷はかなり痛い。

調理や洗い物をするたびに、水が沁みて顔をしかめることになる。

自業自得だが、しばらくは痛みと付き合いながらの生活になりそうである。

夕食後はダラダラしていたら一日が終わった。


3.19(日)

昼前から結婚式の打ち合わせの予定。

中途半端な時間で昼食が取れそうにないので、朝はしっかりめに食べることにした。

妻は前日の残りのチーズリゾット、私はトースト、他にベーコンオムレツ、トマトサラダ、しめじのコンソメスープ。

食事と片付けをして一服していたら、すぐに家を出る時間になった。

結婚式の打ち合わせは、ほぼ聞いているだけで妻に任せ切りにした。

テーブルコーディネートや花などは、私には特に意見がない。

妻が迷っているときに、横から少し口を挟んで促すだけである。

長い打ち合わせを終え、夕飯の買い物をしてから帰った。

小腹がすいたので、安いケーキをスーパーで買って3時のおやつにした。

それからさらにプロフィールムービーの作成。

写真を高解像度でスキャンし直す。

一区切りついてから夕食。

焼き鮭、厚揚げと野菜の煮物、じゃがいもの味噌汁。

野菜が賞味できるギリギリの状態で、にんじんなどは少しエグ味が出始めていた。

妻は1人のときはあまり料理をしないので、私が出張している間は結局食材が消費されなくなる。

二人暮しだからと多めに買わず、ストックは出来るだけ減らすようにしなければならないか。

食後にプロフィールムービーの作成を続行。

高解像度の写真に交換したのだが、画像の容量が大き過ぎて作成段階から映像が綺麗に流れない。

四苦八苦してなんとかデータとして書き出してみたものの、PCのスペックの問題か、再生している最中に停止してしまう有様だった。

これは中程度に解像度を落として再作成するしかないか。

今日やった作業がすべて無駄骨に終わり、とてつもない徒労感に包まれる。

そんな心境で、妻が風呂に入っている間に競馬の結果を確認。

阪神大賞典は順当な結果に終わって外れ。

そりゃそうだよね。

2着、3着が少しは荒れることを期待して3連単を組んだが、様子見するのが正解だったろう。

スプリングステークスは、順当に本命アウトライアーズからの馬連が的中。

小さく買っていれば、このくらいの配当でもプラス収支なんだよなぁ。

やはりこのスタイルで買い続けるか。

気付いたら時刻は日付けが変わる手前。

翌日が休日出勤で朝早いので、慌ててベッドに潜り込んだ。

スタバとドトールは比べられるか?

社会

スタバがドトールに負けた3つの理由 | プレジデントオンライン | PRESIDENT Online

スターバックスが顧客満足度でドトールに敗北 『スタイリッシュ疲れ』が要因か|ニフティニュース

スターバックスコーヒーはドトールに負けたのか?「顧客満足度」の不都合な真実(本田康博 証券アナリスト) : シェアーズカフェ・オンライン

 

ドトールよりスタバの方が人気があるという調査結果が出ているらしい。

上2つの記事が、その調査結果に関してスタバが負けた理由を考察している。

下の記事は、「いやいや調査手法そのものに疑問がありますよ」という反論記事。

まぁ別にどうでもいいことではあるのだが、私はそもそもスタバとドトールを比較することに無理があると思う。

それはちょうど読み終わった「ストーリーとしての競争戦略」に、スタバの事例が載っていたからでもある。

この戦略の視点で考えれば、ドトールとスタバを比較することは、吉野家すき家を比較するようにはいかない。

そもそもコンセプトが違うため、客層がまったく異なる。

ドトールに行こうかスタバに行こうか迷った結果どちらかを選ぶというのは、まずもって何をしにカフェに行くのかということが大きく影響する。

 

「ストーリーとしての競争戦略」(長いから以下「スト競」)では、スタバのコンセプトは「サードプレイス(第3の居場所)」であると記されている。

これはスタバが自ら打ち出しているので間違いない。

職場でもなく自宅でもなくリラックスしながらコーヒーを飲める場所を提供する、ということである。

つまり極論を言えば、スタバはコーヒーを提供しているのではなく、場所を提供していると言える。

だからwi-fiや充電用のコンセントを他社に先駆けて導入したし、座席間隔は広いし、ゆったり落ち着いた雰囲気なのである。

「長居してください」と言っているのである。

 

接客に力を入れているのも、コーヒーが出てくるのが遅いのも、禁煙なのも、食べ物がほとんどないのも、コーヒーの値段が高いのも、すべてそのコンセプトに集約するように作られた戦略である。

待ち時間にちょっとだけコーヒーを飲みたい人や、喫煙者や、ちょっと軽食を食べたい人を、わざと最初から排除しているのである。

コーヒーの値段が高いのは客の回転率が悪いからで、それは昔ながらの純喫茶だって同じではないか。

上島珈琲やコメダなどはコーヒー1杯500円ほどするが、そのほとんどは場所代だと言える。

スタバをして「食事がしょぼい」、「値段が高い」などと言う人は、心配しなくても最初からスタバのターゲットに入っていない。

無理に利用しなくていいのである。

 

「スト競」によると、スタバが都心を中心に店舗展開したのも、どんなシチュエーションで客が店を利用するか考えた結果だという。

スタバが想定しているのは、「遅くまでハードワークするビジネスマンが、仕事の合間に少しだけリラックスするのに立ち寄る」というようなものである。

だから「郊外のスタバ」というのは、当初のコンセプトにはそぐわない。

今はサービスがコモディティ化して、どこにでも立地するようになってしまっているが。

鳥取などの地方にスタバがなかなか出店しなかったのも、失礼ながら上記のような顧客の層が少ないと想定されていたからだろう。

 

逆にドトールのターゲットは「隙間時間にちょっとコーヒーを飲みたい人」だと推察される。

「次のアポまでの15分だけ」とか、「待ち合わせ場所に早く着いたので20分だけ」とか、そういう人たちが利用するのである。

だから席間は狭いし、ちょっとの時間でお腹を満たせるように軽食は充実しているし、コーヒーの値段が安いのである。

私もそういった目的でカフェを利用することが多いので、ドトールの方がよく利用する。

安いし、居心地とか気にしないし、その気になれば長居できるし。

この戦略という観点で見れば、スタバとドトールは本来は競合しない。

だから人気や満足度でドトールを支持する人の方が多いのだとしたら、それは「隙間時間にコーヒーを飲みたい人」の方が「ゆっくりリラックスしてコーヒーを飲みたい人」より数が多いというだけに過ぎない。

 

あえて言うなら、スタバが競合するとしたら昔ながらの純喫茶の方だろう。

居場所を提供するという観点から考えればそうなる。

上島珈琲もそうかもしれない。

コメダはどちらかというと郊外型の店舗が多く、「昼間に連れ合って駄弁りたいご婦人たち」や「時間だけはたくさんある仕事を引退したご老人」が利用しているイメージがある。

ドトールが競合するとしたら、マクドナルドなどのコーヒーに力を入れているファストフードやコンビニコーヒーである。

マックのコーヒーなら100円だし、場所も提供してくれる。

ただコーヒーを飲むだけならコンビニコーヒーの方が安いし、値段の割には結構美味しい。

 

ドトールの方が戦っている土俵がしんどいと思う。

だからか、最近は「白ドトール」なるものを展開している。

スタバが上手くいっているので、隣の芝が青く見えたのかもしれない。

しかしスタバのコンセプトが成功するのは、すべての戦略がそのコンセプトに集約するように作られているからである。

また他社が真似したがらないけど、それが戦略の核となるような「キラーパス」が存在するからである。

この辺りは「スト競」に詳しいし、書くと長くなるので割愛する。

たぶん白ドトールは思うような成果は上げられない。

スタバから顧客を奪取するようなことにはならないだろう。

ドトールでは顧客のニーズ(ちょっと間コーヒーを飲みたいのか、ゆっくりしたいのか)によって座席を分けたり、分煙にしたりしているらしいが、往々にしてそういう「良いとこ取り」は上手くいかないものである。

 

もっと極論を言ってしまえば、人気や満足度が低かろうと利益が出ていれば問題ないのである。

企業が自社の商品やサービスの人気や満足度を気にしなければいけないのは、それが最終的に収益の低下につながるからである。

つまりスタバにしろドトールにしろ、それぞれの店が良いと思って来店する客がいる限り、その客数(売上)と企業の規模のバランスが取れている限り、人気や満足度が高いか低いか、客数(売上)が多いか少ないかは大した問題でないと言える。

だからこそコンセプトは尖らせる必要があるし、戦略が重要になるのである。

給付型奨学金と経済格差、及び教育の機会均等

社会

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貸与型ではなく、給付型の奨学金ができるらしい。

羨ましい話ではあるが、住民税非課税世帯が対象とあるので、かなり経済的に厳しい家庭の学生だけが対象になる。

私も大学進学時に奨学金を借りた。

学費は親に出してもらったが、家を出たので生活費を工面する必要があった。

大学に行けと言ったのは両親だが、どこの大学に行くかを決めたのは自分である。

実家から通える範囲の大学にすれば発生しなかった費用であり、その分は自分が負担するのが筋だと考え、自分から親に申し出た。

月8万円×12ヶ月×4年=384万円。

親の収入要件で無利子の奨学金が借りられなかったので有利子である。

利子まで含めると400万円を超える。

バカにならない金額である。

私はそれを5年で繰り上げて完済した。

それほど金を使わなかった人間なので何とかなった。

後悔はしていないし、考えても詮無いことなので考えないが、奨学金がなければ今の生活にもっと余裕があっただろうことは間違いない。

今の稼ぎから考えると、400万円という金額は大きい。

 

そもそも論になるが、果たして奨学金を借りてまで大学に行く必要があるだろうか。

私は個人的には高等教育機関としての大学の存在意義には疑問を持っているし、それこそ自分自身が初めは大学に進学するつもりはなかった。

しかし大学全入時代で大卒でないと入れない会社はたくさんあるし、大学で専門教育を受けたいという人もいるだろう。

大学進学は必要ではないが、行きたくても行けないことにより所得格差はつく。

奨学金を借りた場合でも、その借金が結局は経済的な格差として付いて回る。

つまり大学教育の価値が借金してまで受けるべきものか、というのとは別に、社会構造として大学教育のコストが経済格差の温床になっていると言うことはできる。

そしてその格差を縮めるために、給付型奨学金を創設するというのは、一応理に適っている。

 

受けたくて受ける教育に税金を投入する必要があるか、大学進学は投資でありコストは就業してからの給与で取り返すべき、などの議論はあるだろうが、問題とされているのは経済格差だけではなく教育の機会均等でもある。

教育というのは受けたいと思う人が受ける権利のある、そういう性質のものである、ということである。

本人が受けたくないと言うならともかく、受けたいのに受けられないという状況そのものが問題だという発想である。

しかし本気で教育の機会均等を目指すなら、税金を突っ込んででも大学まで教育を無償化すべきだろう。

そうでなければ線引きの問題が発生し、結局、機会均等は中途半端になる上に格差は残る。

例えば給付型奨学金の給付基準を世帯年収300万円未満とかにしたとして、じゃあ世帯350万円なら奨学金を借りずに済む経済力があるのか、世帯年収400万円でも子供の数が多ければ経済的には苦しいのではないか、親の扶養をしなければならないのであれば…、など、事実上救われない人が出てしまう。

保育所入所などについても言えることではあるが、「要件」というのはときに個々の実情を無視してしまう。

ならば丸々、国で抱え込むというのも一つの発想だし、最近は安倍首相も教育の無償化とか言い始めている。

 

しかし残念ながら日本は借金まみれなのである。

どんなに高度な財政理論を駆使して「返す必要のない借金だ」とか言ってみたとして、リスクを孕んだものであることは間違いない。

この上なお借金を重ねてまで、教育費を無償化することが正しいかどうかは難しいところである。
なぜなら教育費で受けた恩恵を、財政悪化により医療や介護や保育など、他の面でツケとして払わなければならない可能性があるからである。
結局、人生におけるトータルで考えたときに、国民の負担が変わっていないなんてことになりかねない。
 
個人的には、大学にいかないと良い仕事(いろんな面で)にありつけない、学歴社会そのものを見直さない限り、問題の根本的な解決にはならないと思う。
採用にあたりインターンに近い試用期間を設けるなどし、能力適性中心の採用を進めるのである。
学歴により収入に差がつかないのであれば、純粋に学びたい人だけ進学するだろうし、それであれば奨学金も大して必要でない。
教育の機会均等を問題にするのであれば、就業して稼いでからの学び直し、社会人入学の仕組みを整えれば済むと思う。
教育は非常に重要なものではあるが、数字などのわかりやすく目に見える結果に繋がりにくく、お金をかけづらい、あるいはどこまでお金をかけるべきかわかりづらい部分がある。
だからこそ教育制度はコスト意識を持って、バランスを考えて整備しなければならないと思う。
手を抜くのは厳禁だと思うが。
最近流行りのポピュリズムの根っこには、知識や教養の不足があると思う。
つまり、不十分な教育が回り回って社会の病巣になると思うのである。

マラソン大会の在り方

ラン

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ランニング人口が減少しているらしい。

各調査の数字にバラつきがあるので、数字などは目安に過ぎないと思うが、とにかく減っているのは間違いないのだろう。

2年前の東洋経済オンラインの記事でもそんな内容が取り上げられており、ああだこうだ難癖つけてみたりしている。

10年以上ずっとランニングを続けていて、マラソン大会にも最低でも年1回くらいは出場してきた身としては、少しでもランナーが減って大会に参加しやすくなるなら歓迎である。

まぁ少なくとも今のところ、体感として減った感じはしない。

相変わらず主要なランニング大会へのエントリーは難しいし、出場したらしたで混雑に悩まされることになる。

日経新聞などは地方でのランニング人口の減少を指摘しているがどうだろう。

まぁいろんな側面から検証できることはあるだろうが、別に無理にランニング人口を増やす必要はないと思うので、好きな人だけが続ければいいと思う。

 

ちなみに私は、マラソン大会で卒業論文を書いている。

「地域振興としてのスポーツイベント」と題して、ある島嶼部のマラソン大会を取り上げ、現地に行って役所の観光課と一緒に大会準備をし、大会当日はフルマラソンを走り(しかもなぜか上位入賞し)、大会後は地域住民やスポンサー企業にインタビューして回ったりした。

アンケートなどによる定量的な調査より、生の声を拾って現実をあぶり出す方法を、このときは選んだ。

その前年にはプレ卒業論文的な課題で、全国のフルマラソン大会に郵送と架電でアンケート調査を実施し、大会側の主催趣旨と参加者数や上位タイムなどの定量データをクラスター分析にかけ、マラソン大会を類型化してみたりした。

プレ論文のくせに微妙に凝った手法を駆使したので、調査協力いただいた大会主催者から「結果をぜひ知りたい」と興味を持たれたし、どこぞでそんなことをしていると知った大学教授から「講演会でデータを使いたいので許可が欲しい」と言われたりもした。

まだランニングブームが到来する前のことである。

そんな研究をする数寄者はなかなかおらず、当時は先行研究が見つからなかった。

「お前の趣味じゃないのか」と周りの教授陣からは散々言われたが、指導教員だけは「誰もやってないからこそ、やる価値がある」と認めてくれた。

大学院に行って研究を続けることも勧められていた。

今のランニングブームを思えば、勧めに従ってあのときの研究を続けていれば、それなりに需要はあったかもしれないなと思う。

 

さて、そんな私からすれば、昨今、雨後の筍のように現れ続けるマラソン大会には、とても違和感がある。

当たり前だが、マラソン大会を開催するとき最も大切なことは「なぜマラソン大会を開催するのか」ということである。

もっと言えば、「なぜマラソン大会でなければならないのか」という部分もあるが、それを言い出したらキリがないので割愛する。

要は「あそこがやってたくさん人が来たみたいだから、うちもやろうかな」みたいな、雑な考えでやってないだろうか、ということである。

そもそも最初に言っておくと、多くのマラソン大会は赤字である。

特に交通規制をかける必要のある大規模大会になると莫大な費用がかかるため、採算ラインはぐっと厳しくなる。

河川敷や公園などの比較的簡単に利用できるコースを使ったり、コンパクトに開催して運営を少人数で行うなどしなければ、利益を上げることは難しい。

だから自治体が絡んで「地域振興」などと銘打って、税金を投入して開催したりするのである。

「そこまでして開催する目的は何ですか?」というところは、突き詰めて考えなければならない。

 

特に自治体が開催するマラソン大会の目的は、大別すると2つに分けられる。

1つは経済振興。

外からたくさんの人に参加してもらい、宿泊してもらったり飲み食いしてもらったりしてお金を落としてもらい、あわよくば地域を好きになってもらってマラソン以外でも遊びに来て欲しい、というものである。

もう1つは健康増進及びスポーツ振興。

地域の人に参加してもらい、マラソン大会をきっかけに運動を嗜むようになって欲しい、あるいは地域の人が参加してお祭り的に盛り上がることで一体感が醸成され、コミュニティの良化や強化につながって欲しい、というものである。

両方ともを目的にしたものもあるし、これら2つをざっくり組み合わせて「地域振興」とか銘打っていることもある。

2つをごっちゃにすることも間違いではないのだが、やはりこの2つは大きく異なる。

むしろ実際に開催するにあたっては、この2つの目的が相反することもあるのである。

 

これ以上その中身について深掘りすると、とんでもない分量になるので控えるが、要は今あるマラソン大会もこれからやろうかなとか思っている人たちも、それが多くの人・もの・金・時間を投入してまですることなのか、今一度考えて欲しいなということである。

経済的な波及効果などは「推計〜億円」とかはじき出せるのだろうが、そんなわかりにくいことに資源を使うくらいなら、子育て対策とか電線の地中埋設化とか、もっとわかりやすくて身のあるところに振り向けた方がいいこともあるわけである。

それでもやるとなったときには、どこを向いてその大会を開催するのか、その戦略に合わせてここのパーツを考えていく必要がある。

例えば本当に地域の観光資源を楽しんでもらうために大会を開催するなら、速いランナーなんて邪魔でしかないのである。

逆も然りで、ある程度のレベルの市民ランナーにマラソンそのものを楽しんでもらおうと思うなら、制限時間を短くして門を狭くするなどの対応が必要なのである。

両得しようというか、どちらにも良い顔をしようとするから、わけのわからないことになる。

それは本来目指すべきところが定まっていないから起こるのだ。

 

まして上で引っ張った記事が書いているような、競技人口の増加や減少と競技レベルはまったく関係のない話であり、もはや何が言いたいのかわからない。

日本のマラソンのレベルが世界と比して戦えるレベルでないのは明白だが、それは選手強化の問題であり、市民マラソン大会云々とは関係ない。

むしろ以前は国際大会などは、市民ランナーは余程のハードルをクリアしなければ参加できなかった。

今でも大阪国際女子マラソンびわ湖毎日マラソンなどはそうである。

そういった大会はもちろん重要なのだが、それと市民マラソンを混ぜるから意味のわからないことになる。

世界の名だたるシティマラソンに肩を並べようという、ワールドメジャーの東京マラソンを除けば、そんな夢のステージには手を出さずに身の丈にあった目的と規模で開催すればいいのである。

 

そもそもフルマラソンくらいのハードな運動は、健康には悪影響を及ぼす。

まさに好きな人だけが楽しめばいいスポーツなのである。

「とりあえずマラソン大会やっとけ」的なものは、もうそろそろ終いでいいのではないだろうか。

それでもあえて「マラソンで地域振興を!」と考えるのであれば、それなりの工夫が必要である。

あとは地域住民の協力を得られるかどうか。

マラソン大会に限らないが、「地域振興」というお題目なのに肝心の地元の人が置き去りにされているケースがよくある。

それも含めてやっぱり、「何のためにやるの?」をもう少し考えて欲しいと思うのである。