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異呆人

毒にも薬にもならない呟き

人を好きになる方法

はてブスマホで見ると、「注目記事」というコーナーが下の方に出てくる。

通算のPVなのだか、近〜ヶ月のPVなのだか、何で判定されているのかはわからない。

私のブログのPVは、ほとんど過去に書いたオセロニアの記事である。

もう1年以上前の記事もあるのだが、今でもアクセス数が落ちないことが不思議である。

さておき、久しぶりにこの「注目記事」の欄に目を留めると、オセロニアの記事に混じって下の記事がランクインしていた。

恋人がほしいという感覚がわからない - 異呆人

誰がどんな方法でこんなネットの辺境のこの記事に行き当たるのか知らないが、その他の雑記の中では読まれている方らしい。

恋愛できなくて困っている人、あるいはそんな自分に不安を感じる人がいるのだろうか。

もしくは、恋愛が賛美される世の風潮に疑義を呈したい人がいるのかもしれない。

 

私は恋愛できなかったり、恋人が欲しいと思えない人というのは、自分を極端なまでに客観視できる人だと思う。

逆さにして言えば、恋に必要なものは古来から言われる通りに「盲目」なのである。

だから自分の感情の揺れを客観的に見つめられる人というのは、恋愛しにくいのだと思う。

またそんな人は、相手を客観的に眺められる人でもある。

相手の良いところと悪いところをつぶさに観察できるような人は、相手と良い友人関係を気づいたりすることはできるだろうが(むしろ人との距離の取り方は上手かもしれないが)、こと恋愛に関して言えば、「できない」タイプの人だろう。

「できない」ことが悪いと言っているわけではない。

する必要もない。

ただ「恋愛できなくても結婚はしたい」という人はいるかもしれない。

私はそういうタイプの人間である。

そして結婚し、生活を共にするなら、相手に恋はしなくてもいいが、相手を好きになることは必要だと思う。

 

人を好きになるのに必要なことは2つあると思う。

1つは相手の良いところを見つけること、もう1つは相手の嫌なところを受け入れることである。

ちなみに「好きになる」が「恋をする」に変化する際は、後者が「嫌なところが目に入らない」に変わっていると思われる。

すごくシンプルなことではある。

だからこそ簡単に交尾をするまでに至り、人類は数を増やしてこれたとも言える。

だが自分や相手を客観視できる人というのは、このシンプルなことを難しく捉えるきらいがある。

「自分が本当に相手のことを好きなのか?」とか、哲学的に自問を始めたりする。

好意というものが非常に主観的なものである以上、それを客観的に考察することはナンセンスである。

「真実の愛とは何か?」みたいなことを考える必要はない。

結婚や交際を望むだけなら、相手が「間違いなく世界で一番好きな人」である必要はない。

数多いる「好きになれる人」の中で、たまたま縁があった人であればいいのである。


相手の良いところというのは探せば何とか見つかるものである。

問題は嫌なところを受け入れられるかどうかだろう。

「受け入れる」ということは「目をつぶる」ということとは違う。

相手の嫌なところを理解しつつ、どうやってその嫌なところと付き合うかを考えることである。

恋は目をつぶらないとできないかもしれないが、それでDVやストーカー気質や借金癖に見ないふりをしたのであれば、末路が悲惨なことは言うまでもない。

嫌なところを受け入れられるかが、いわゆる相性なのだとも思う。

例えば、私の妻は凄まじく優柔不断である。

石橋どころか鉄の橋でも、散々叩いてから渡る。

私はせっかちなので相性が悪そうだが、裏を返せば決断力のある私が上手くリードしてあげれば良いわけである。

そういうことができるかどうか、それは相手の良いところをどれだけ認められるかでもある。

良いところと嫌なところの自分の中での価値のバランスは、合理的に考えればいい。


客観的な視点の強い人、悪く言えば冷めた人でも、そうやってシンプルに考えて相手の良いところに目を向けられれば、相手を好きになることはできると思う。

あとは連れ添えば情が湧くものである。

そんな状態を悪く言う人もいるが、情が湧くくらい付き合えた時点で、人間関係というのは完成されているのである。

ただし繰り返しになるが、恋愛も結婚もしなければならないものではない。

独り身の良さと家庭を持つ良さは、どちらが良いでも悪いでもなく、トレードオフの関係である。

実際に結婚してみて、つくづくそう思う。

デュエル エクス マキナ

しばらくゲーム熱が下火になっていた。

主としてプレイしているのは、友人と一緒に遊んでいるFFRKくらいである。

青春時代をファイナルファンタジーと歩んで来た私にとって、そのキャラクターで遊べるゲームというのはそれだけで楽しい。

他にもFFRKの良いところは、無課金でもかなり遊べること、1回のプレイ時間が短いこと、ゲームバランスが絶妙であることなど、いくつか挙げられる。

今はほとんど遊び尽くした感、マンネリ感があるが、友人と一緒に始めたためお互いなかなか辞められず、またそうやってダラダラ続けているうちに新しい要素が登場して、喜んで遊ぶという状況を繰り返している。

 

マンネリ化したFFRKのプレイ時間は非常に短くて済む。

ログインボーナスだけ受け取って、プレイしない日もある。

その分の時間を駄文を書くことに費やしているのだが、駄文とはいえ文章を書くことは結構エネルギーを使う。

気分が乗らない空き時間に、他に時間潰しできるようなゲームを探していた。

だがなかなか、始めてみても続くゲームがない。

だからゲームをする時間が減っていた。

良いことなのかもしれないが。

 

始めたばかりのゲームが続かない理由は、いくつかある。

一つは、単純に面白くて手軽なものが見つからないからである。

やってみても面白いが膨大な時間を費やすか、そもそも面白くないかである。

また一つは、私のスマホのHDが限界であることもある。

我がiPhoneは容量12GBなのだが、内臓データが現状すでに11GBを超えている。

最近流行りの高画質RPGなどは、とてもプレイできない。

他にも細々した理由はあるのだが、要は費やす時間に見合う面白さのあるゲームを見付けられていないということである。

 

そんな中、先日久しぶりに当たりと思えるゲームに出会った。

「デュエル エクス マキナ」(長いので以下、DXMと記)というカードゲームである。

もともとMTGプレーヤーだった私はカードゲーム好きなので、ハマる素地は十分あったのだが、他のスマホカードゲームと比較しても面白い方だと思える。

最近、やたらとCMを流している「シャドウバース」をやっていたこともあるが、確か途中で容量が大きくてダウンロード出来なくなって辞めた気がする。

あるいはプレイ時間が長いと感じたか、課金要素が強いと感じたか。

ゲーム性は高いと感じたが、いずれにしても続かなかった。

 

DXMはやっていて楽しいし、今のところ続けられそうだなと感じている。

魅力的だと思う点が、大きく2つある。

一つは戦略性の高さである。

単体のカードパワーが高過ぎず、カード同士のシナジーを活かした戦い方が有効だと感じる。

初期の遊戯王のように「ブルーアイズホワイトドラゴン出したら勝ちだろ」みたいなカードゲームは興醒めである。

カードではなくデッキに1人設定するガーディアンも個性的で、どんな戦略を選ぶかの幅が広い。

またシナジー重視の戦い方なので、カードのレアリティの重要性が比較的低い。

つまりレアカードを引くために、そこまでガチャガチャしなくていい。

 

もう一つはカード生成システムである。

通常、スマホカードゲームではカードはガチャでしか手に入らない。

しかしDXMでは、不要なカードを分解して手に入るマナを使って、好きなカードを作ることができる。

いわゆる「シングル買い」のシステムである。

もちろんレアリティの高いカードを生成するコストは非常に高いのだが、これのおかげで、いわゆるコモン・アンコモンのような低レアリティカードが容易に手に入るようになっている。

低レアリティでもデッキに数が必要なカードはある。

そして、いくら低レアリティでもガチャで出てこないことはある。

それが足りずにデッキが機能不全になることが、こういうカードゲームでは往々にしてストレスになるのだが、それが解消されている。

またこのシステムではガチャでダブったカードも有効利用できるので、一石二鳥だと言える。

 

しばらく続けることになれば、また定期更新記事にしたり、デッキレシピを晒したりしようと思っている。

まぁ、他にもやることはたくさんあるのだけれども。

私にとっては、これが良い息抜きになるのである。

あぁ、青春の日々よ

今週のお題「部活動」

 

部活動は、中学から大学までずっと陸上部に入っていた。

正確には陸上競技部、専門種目は長距離である。

陸上の長距離なんぞやっていると言うと、かなりの確率でマゾヒストだとか言われる。

「何が楽しくて走っているのか?」という質問もよく受ける。

マゾヒストではないと思うし、楽しくて走っているわけでもない。

「なぜ走るのか」については、陸上の長距離をやっている限りは必ず向き合わなければならない命題だと思うし、長いこと考えた結果、自分なりの回答は得ている。

たぶん私は、「自分がこれ以上ないくらい一生懸命やった」という感触を得ることが嬉しいのだ。

これが技術が必要なスポーツになると、思う通りに身体が動かせないことがフラストレーションになったりする。

自分が本当にベストなパフォーマンスを発揮できたのかわからない。

走ることにおいては、息が切れて足が動かなくなれば、とりあえずは全力を尽くしたことになる。

特に長距離走においては、その傾向が顕著である。

あとは、負けても「自己ベスト」という明確な達成度の基準があるのも嬉しい。

「何分何秒早くなった」という事実は、それ以上でも以下でもない厳然たるものである。

自分の努力の成果と成長を感じることができる。

 

などと御託を並べてみたが、こんなものはほとんどすべて後付けである。

スポーツなどの身体を使ってプレーするものは、感覚で得られるものを言語化することにほとんど意味はないと思う。

やったらわかる。

やってわからないなら、どれだけ言葉を尽くしたってわからない。

そんなものである。

ちなみに私はこれだけ言っておきながら、とてもネガティブな感じで「陸上の長距離」という選択肢を選んでいる。

そもそも私がスポーツをやろうと思ったのは、親から「中学に入ったら、何か運動部に入りなさい」と言われていたからである。

それを真面目に鵜呑みにしただけだった。

 

その中で陸上競技を選んだのは、個人競技だったからである。

本当はテニスをしたかったのだが、通った中学校にテニス部がなかった。

私は小学校の頃は地域のソフトボールチームに所属していたのだが、そのときにチームプレーの大変さを嫌というほど感じた。

あの連帯責任感が嫌だ。

自分のミスの責任は自分で引き受けたい。

自分のミスでチームが負けることになったりしたら、やり切れない気持ちになる。

それで個人競技を検討したのだが、通った中学校にあった部活動の中で該当するものは、陸上と水泳と柔道だけだった。

私は泳げなかったし、ひょろ長くて柔道に向かないのは一目瞭然である。

それで陸上を選んだのだ。

つまり単なる消去法の結果だと言える。

その中で長距離を選んだのも、他の種目より比較優位があったからである。

やりたいことより得意なことを選んだだけである。

むしろ個人的には、短距離の方に憧れがある。

 

さてそんな感じで選んだものだから、中学時代の部活動はとても苦痛だった。

練習はしんどい。

しかも比較優位があるとはいえ、所詮、井の中の蛙である。

どれだけ練習しても、大会ではまず勝てない。

部としてのまとまりも悪く、顧問がいなければ他の部員は砲丸投げの球でボーリングをしたり、平気でサボりまくっていた。

3年生のときは主将も務めたが、まとめようと思っても舐められてまったくうまくいかず、凄まじいストレスを感じた記憶しかない。

黒歴史とは言わないが、できれば思い出したくいない記憶である。

 

だから、始めてしまったから続けたものの、陸上競技はすっかり嫌いになっていた。

自分のポテンシャルの限界も簡単に見えてしまっていた。

高校に入ったら、何か違うスポーツをしようと思っていた。

そう、中学のときに諦めざるを得なかったテニスなんか良いかなと思って、見学に行ったりした。

しかし高校のテニス部はあまり雰囲気が良くなかった。

入部希望者が多く、ふるいにかけるために「しごき」のようなことをしていた。

体力はあるので「しごき」に耐える自信はあるが、そもそも私はそういうギスギスした雰囲気が好きではない。

どうしたものかと悩んでいると、同じ中学で同じ陸上部だった友人から、陸上部に見学に来ることを勧められた。

私は、最初は固辞した。

いや本当に、それくらい嫌いになっていたのである。

しかし「すごく良い部活だから」と熱心に勧誘されるのに負けて、「見学だけなら」と行ってみることにした。

 

そして見学して、友人の言っていることが理解できた。

確かにすごく雰囲気が良い。

アットホームだが馴れ合いではなく、温かい雰囲気の中で皆が真剣に競技に取り組んでいるのが感じられた。

特に先輩方の人柄が良く、話も面白く、理想郷だと感じたほどである。

それでも陸上競技に対する自分自身の限界を感じていたので、新しいスポーツに挑戦してみたいという思いも強かった。

迷った私は、友人に立会いを頼み、コイントスをすることにした。

表が出たらテニス部に入り、裏が出たら陸上部に入る。

もちろん、やり直しはしない。

当時、漫画「HUNTER x HUNTER」の幻影旅団の話のところで、「揉めたらコインで」というシーンがあったことを見て思いついたのだ。

結果は裏が出て、陸上部に入ることになった。

今考えても、よくまぁそんな方法で選んだものだと思う。

 

そんな経緯があったから、部活動はとても楽しかった。

陸上競技は相変わらずあまり好きではなかったが、この部にいる人たちとなら頑張れると思った。

いつぞやトラブルがあったとき、皆が一人ずつ「なぜ陸上部に入ったのか」を顧問に答えさせられたことがあった。

皆、「陸上がやりたいから、好きだから」と答えていたのだが、私は「陸上部が好きだから」と答えた。

それは「名答」として後々語られることになるのだが、私にとってはウケを狙った回答ではなく、単なる本心だった。

改めて思い返すと小っ恥ずかしい回答であるが、あの頃は本気でそう思っていたのだ。

私は「部活動」というと、今でもあの時の自分の答えを思い出す。

そして小っ恥ずかしいと思いながら、しかしそれこそ青春ではないかと思うのである。

 

ちなみに当時の先輩や同期の仲間とは、今でもずっと交流を続けている。

大げさな言い方ではなく、部活動を通じて得られた友人関係というのは、私にとって貴重な財産になっている。

だから、もし自分に子供ができたとしたら、中学に入ったら何か部活動をするように勧めるだろう。

別にスポーツでなくてもいい。

特別好きなものが見つからなくてもいい。

本当に嫌なら、辞めればいいだけの話である。

でも、飛び込んでみなければ得られない何かもあると思うのだ。

こんな感じでいい加減なきっかけで始めた私でさえ、大きなものを得ているのだから。

 

ドラえもんに命はあるか

最近TVで、ハリウッドから逆輸入される実写化映画、「ゴースト・イン・ザ・シェル」のCMが流れているのをよく見る。

私は、攻殻機動隊は漫画もアニメも見たことがなく、名前を知っているだけである。

押井監督のアニメは評判も良く、画も綺麗で面白そうなので見てみたいとはずっと思っているのだが、ついぞその機会はなく今にいたっている。

今の私生活の現状を鑑みれば、当分その機会は得られそうにない。

とりあえずそのCMを見てわかったことは、主人公が脳以外はサイボーグらしいということである。

今ではそう珍しい設定ではないが、原作が作られた頃は斬新だったかもしれない。

 

それを見ていてふと思ったのだが、「脳以外はサイボーグ」という状態は、果たして生きていると言えるのだろうか。

生命維持を自立的に行う機能は失われている。

人間のパーツのどの部分が機能していれば「生きている」と言えるのか。

脳か、心臓か。

少なくとも一般的には、心臓だとは思われていないようである。

心臓が機能不全であれば生きていないというなら、ペースメーカーを付けて生きている人は「生きていない」という扱いになってしまうからである。

どれかといえば、脳を人間の生命活動の根幹と考える傾向にあるように思う。

脳死」というのは、そういう発想に基づいているのだろう。

脳が機能していなければ、死んだも同然という扱いである。

 

では、AIは「生きている」と言えるだろうか。

言い方を変えれば、AIが人間と同等かそれ以上の知的活動能力を得たとき、私たちはそれを命なきものとして扱えるだろうか。

ドラえもんは「生きている」と言えるか。

ターミネーターはどうか。

そんな問いを抱える日が、遠からず来ると思う。

例えば、ドラえもんが再起不能なまでに壊れてしまったとき、それをスマホや洗濯機が壊れたのと同様に扱えるだろうか。

「仕方ないね、物だから」と割り切れるだろうか。

意外と難しいのではないかと思う。

 

人間と簡単な会話ができ、こちらの体調を見て気遣う言葉をかけてくれ、身の回りの世話をしてくれる。

そんなAIを搭載したロボットが一家に1台あるのが当たり前になるかもしれない。

例えば、見ず知らずの誰かにそれを破壊されたとしても、殺人罪には問えない。

器物損壊で罰金や弁償が関の山だろう。

(まぁ、これは現状ではペットでも同じだが)

慰謝料だって、10〜20万円程度が相場である。

ドラえもんを圧延ローラーでペシャンコにしても、大した罪にはならない。

しかし、もしそんなことがあれば、のび太くんは心に深い傷を負うに違いない。

もしかしたら仇討ちすら考えるかもしれない。

仇討ちなどしようものなら、のび太くんが殺人罪で服役することになってしまう。

 

そう考えると、命があるとかないとかは、人間が勝手に考え出した実はとても些細な違いなのかもしれない。

あるいはAIやロボットというのが、猿が人間になったように、人間の先にある革新的な存在なのかもしれない。

人間以上の身体能力と知能を持ち、パーツが壊れたら取り替えればいいだけのロボットは、あらゆる点で人間を凌駕している。

人間に取って代わっても不思議ではないというか、むしろ人間に取って代わるべきだとも言える。

遠い将来、そんなAIが地球に跋扈する世界になれば、むしろ命ある存在などそれだけで天然記念物のようなものになるかもしれない。

そのときはきっと、人間が「絶滅危惧種」として動物園で飼育されていることだろう。

怖いもの知らず

怖いもの知らずだと、よく言われる。

自分でもそうだと思う。

諍いは好きではないので無用に事を荒立てたりはしないが、必要だと思えば誰彼構わず意見する。

会社でも社長だろうが上司だろうが関係なしに言うことは言う。

どう思われているか気にしないわけではないが、どう思われてもいいとは思っている。

結局、「他人の評価」というのは「他人の評価」以上の何物でもなく、それによって不利益を被ることはあっても自分自身が変化するわけではない。

実態が変わるわけではない。

自分がどういう人間でありたいかということがはっきりしていれば、他人にどう思われるかは重要ではないと思う。

 

他人の評価もそうだし、それ以外の実害もそうだが、ほとんどの出来事というのは怖いはずがない。

人生で一番の不利益というのは、死ぬことである。

つまり生きている間に起こることというのは、死ぬよりマシなことばかりだと言える。

私は死ぬことすら怖いと思っていないので、それ以外の何物も「怖い」とは思えない。

もちろん嫌だなと思うことはある。

それこそ挙げればキリがないくらいたくさんある。

それでもそれは「怖い」という感情とは違うと思う。

思うに、「怖い」という感情は、起こる出来事を自分が受け入れらない状態において発生する感情ではないだろうか。

起きてほしくはないが、起きたら受け入れられる出来事というのは、嫌なことではあっても怖いことではないと言える。

あるいは理解できないことも「怖い」と思うだろう。

それはやはり理解できるかそうでないかが、その現実を受け入れられるかどうかに関連しているからだと思う。

 

自分が瞬間的に「怖い」と思う場面を思い返してみると、例えば車の運転で事故を起こしそうになるときなど、命に関わる場面ばかりである。

それはつまり、どれだけ私が死ぬことを怖くないと思っていても、生存本能というのが人に元来インプットされていて消えないものだという証左だろう。

心臓の筋肉が不随意筋であることと同じようなものだろう。

人は自死を選ぶことはできるが、本来的にはそのように作られてはいないのである。

どんなに怖いもの知らずであっても、死ぬことは死ぬ直前まで怖いと思ってしまうものなのだろう。

それでも私は、死ぬことより自分自身が望む生き方ができないことの方が怖いと思う。

アイデンティティがなくなると言ってもいい。

信念を失う、あるいは自分が自分でなくなると言うこともできる。

それは死んだらそれまでだが、生きて自分を失うということは、その苦しさをそのまま味わい続けることになるからである。

やはりそんな状況を考えたら、「上司に怒られる」とか「会社をクビになる」なんて、どうでもいいレベルの話だと思える。

リアルな家計の話

家計簿をつけている。

そんな話を以前に書いた。

syuten0416.hatenablog.com

結婚してからも続けている。

というか、結婚してからの方がしっかりつけるようになっている。

それは収支に余裕がないからである。

 

我が家の家計の場合、生活費はすべて私の給与から支出することになっている。

妻の給与というのはパートに毛が生えた程度のものなので、正直まったくあてにならない。

かといって、私の給与もそんなに多いわけではない。

生活する前からギリギリの家計になりそうなことは目に見えていた。

だから妻にもレシートの提出を義務付け、それもすべて家計簿に記すようにしている。

ちなみに妻の給与は定額を貯蓄し、残りは妻の小遣いとしている。

妻が支出した生活費は、月に1回まとめて返金するようにしている。

私の小遣いは生活費の残りである。

 

この状態で2ヶ月ほど家計の状態を観察した。

わかったことは、生活費と私の小遣いを支出する私の給与の収支は、ほぼ赤字だということである。

まず一人暮らしだったときと比べて、当たり前だがはるかに家賃が高い。

そこで2万円以上、独身時代と比べて収支が悪化している。

次に固定費も増している。

ガス代は都市ガスになったので値下がりし、プラスマイナス0くらいだが、電気代や水道代はこれも当たり前だが増えている。

テレビのない生活からテレビのある生活に変わったので、NHKの受信料も払っている。

独身時代と比べて、固定費だけで3万円近く支出が増えていることになる。

 

食費も当然増えている。

2人暮らしだからマスメリットを効かせているし、出社する日はできるだけ弁当を作ったりと節約を心掛けてはいるが、出張時などどうしても丸2人分食費がかかる日もあるので、思ったほどの効果は上げられていない。

日用品の出費もほぼ倍だが、女性ならではの支出もあるので抑えようがない。

妻の花粉症の医療費もかかる。

そういった細かいジャブのような出費の積み重ねが効いている。

 

私の小遣いは飲み代や友人との特別な食事代が月1万円ほど、ランニングの大会参加料などのランニング関連費用が月1万円ほど、競馬の費用が月1万円ほど、毎日のコーヒー代や甘いものを食べる費用が数千円といったところである。

大体月に4万円くらいを使っている。

生活費の方も多少月によって波があるので収支の状況はその月によって違うことになろうが、大体生活費の収支でプラス2万円からトントン、そこに私の小遣いが4万円ほど加わるので最終的な収支がマイナス2〜4万円になっているのが現状である。

贅沢していないのに赤字とか、なんだか泣けてくる。

もっと節約してできないことはないが、これ以上節約するとストレスになって妻の精神状態に悪影響を及ぼしそうなので、今のところ赤字についてうるさく言うことは控えている。

 

厳密に言えば妻の給与で貯蓄できているし、私の収支の中にも貯蓄型の保険の費用なども含まれているので赤字ではない。

それでも私個人の貯金が削られていることは間違いないので、あまり良い気分ではない。

本当は生活費と小遣いを差し引いてプラス収支になるようであれば、私も自分で貯金したいのだが。

それにはまず、支出を減らすより収入を増やす努力をしなければならないので、会社にさっさと給与を上げてもらう他ない。

今年度からは少しボーナスは増えるらしい。

それでも割安な給与だとは思うのだが、転職という選択肢は以前妻に拒否されているので、もうこれ以上私にできることはない。

仕事は頑張っているつもりである。

もとより頑張って給与が増える会社ではないが。

 

ちなみに妻の給与から約束している貯蓄を差し引けば、妻は月5〜6万円の小遣いを得ていることになる。

使わなかった分は家計の分として多めに貯蓄してもらうことになっているが、それについてはチェックしていない。

その辺り、やはり私は妻に甘いのだろうか。

いろいろ思うところはあるが、もう少し様子を見てから考えることにしよう。

2017皐月賞、アンタレスステークス

アンタレスステークス

予想

◎6:グレンツェント

◯3:ミツバ

▲15:タムロミラクル

△10:モルトベーネ

△7:モンドクラッセ

△13:アスカノロマン

 

買った馬券

馬単:6→3、7、10、13、15

         3、7、15→6

 

結果

1着:モルトベーネ

2着:ロンドンタウン

3着:ロワジャルダン

 

堅軸と思われるグレンツェントから馬単で流し、予想で高く評価をした方から裏も購入。

あまり考えずに馬柱の綺麗な馬を中心に買っただけ。

結果はグレンツェントが失速して、馬券はかすりもせずに終了。

2、3着はヒモにも入っていないので、軸の選定が悪かったとかそういうレベルの話ではない。

デムーロ騎手の無双モードはまだ続いているのだろうか。

私はどうしても信用し切れなくて評価を下げがちだが、皐月賞ペルシアンナイトもあるかもしれないなと思った。

ちなみに皐月賞の馬券はアンタレスステークスと合わせて土曜の朝に購入していたので、買い目を変えたわけではなかったが。

 

皐月賞

予想

◎4:カデナ

◯6:アウトライアーズ

▲13:サトノアレス

△8:ファンディーナ

△7:ペルシアンナイト

△2:スワーヴリチャード

☆1:マイスタイル

 

買った馬券

3連複軸1頭:4ー2、6、7、8、13

ワイド:1ー4、6、13

 

結果

1着:アルアイン

2着:ペルシアンナイト

3着:ダンビュライト

 

考え出せばそれぞれいくつか難があり、前評判通り混戦模様に思える。

そんな中、軸だけはカデナで行こうと早い段階から決めていた。

前走の弥生賞が緩いペースだったとか、相手関係がどうだとかいろいろあるが、それはどの馬も同じこと。

なら同じ舞台で勝ち切った実績と、5戦連対を外していない安定感を素直に評価した方がいいだろうと思った。

対抗と単穴も同じ中山が舞台のスプリングステークス組から。

3ヶ月ぶりできっちり2着に入ったアウトライアーズ、同じく3ヶ月ぶりで4着に敗れたが、パンパンの良馬場ならキレ味が生きそうなサトノアレスをチョイス。

ウインブライトは前走がメイチと見て切った。

ペルシアンナイトは私にとってデムーロ騎乗だけが不安。

ファンディーナとスワーヴリチャードは切るに切れなかった感じ。

馬券はメインの3連複はカデナを軸に流し、1枠1番を引いて前走のように逃げれば面白いと思うマイスタイルからワイドを少しだけ買い足した。

結果は、波乱の決着に馬券はまたもやかすりもせず終了。

私のG1連勝も呆気なく止まった。

アルアインもダンビュライトもまったく買う要素がないわけではないが、他馬と比較して積極的に買う材料は見つけられなかった。

ただ切るに切れない馬を買い目に加えるくらいなら、妙味のある方に冒険した方が面白いかもしれないとは思った。

まぁまたこれで一から仕切り直し。

一つ一つのレースを勉強として糧にして、前に進むのみである。