異呆人

毒にも薬にもならない呟き

個性の生きるチームワーク

私はあまりチームプレーが得意ではない。

正確に言うと、得意でないのではなく好きでない。

なんでも自分の責任の下に自分の意思でやりたいタイプである。

誰かのやったことが自分にも影響したり、自分のやったことが他人にも影響してしまう状況が好きではない。

だから学生時代の部活動も個人競技を選んできたし、仕事も皆で一つのものを作り出すような仕事ではなく、個人プレーで結果を出す仕事をしてきている。

それでもまったくチームワークと無縁だったかといえばそうでもなく、いわゆるリーダー的な立場に立ってチームをまとめる状況にはしばしば置かれてきて、皮肉にもチームワークというものを考える機会はままあったりした。


チームワークといえば、まずは「和」が連想される。

実際にそれが求められるとも思う。

各々が好き勝手なことをしていたらチームはまとまらない。

というか、それはもうチームの体をなしていない。

だからある程度互いに合わせることは必要だと思う。

ぶつかり合ってもどこかで譲歩すること。

最低限のレベルでそれは必要だろう。

ただ、チームのメンバーが互いに譲り合った末に、各々の良さを消してしまってはチームの意味がない。

皆で何かをするということは、それが1人でするよりも高い効果が得られるから意味がある。

単なる足し算以上の効果が得られるのが理想なのである。

各々の個性が生かされ、相乗効果が発揮される状況こそチームワークの真髄だと言えるだろう。


この「和すること」と「個性を生かすこと」は相反する。

ある程度までは両立させることも可能だと思うが、基本的には矛盾しているのである。

だからどの程度の配分でチームメンバーに和と個性を求めていくかは、「そのチームで何をするか?」による。

例えばスポーツの団体競技であれば「和」の配分が大きいと思う。

逆に複数人で取り組む仕事のプロジェクトなどであれば、「個性」の配分が大きめでもいいかもしれない。

どの配分でチームのパフォーマンスが最大になるかを考えるのはリーダーの仕事である。

まぁ、私の場合は「個性」大きめのチームワークを求めたことしかないが。

なんせチームプレーが嫌いなのだから。


「個性」の生きるチームワークに必要なのは緩い連帯である。

縛り過ぎると個性が消える。

だから基本的には自由に活動してもらうのがいい。

要所でだけまとまっていればいいのである。

逆に要所でまとまれなければチームが空中分解する。

そういうチームになってしまったこともある。

だからそんな経験も踏まえて要所でまとまるために必要だと思うことは、チームの目標がきちんと共有されることである。

これに尽きる。

皆で一つの目標に向かうからチームなのである。

これが出来ていそうで意外と出来ていないことが多い。

なんとなく集まったチームになってしまったり、各々の都合を主張し過ぎたりしてしまう。

目標が明確で共有されているなら、最優先されるべきは各自の都合ではなく、チーム目標の達成だと理解できるはずである。

揉めたときや迷ったときは、目標という原点に回帰することができる。

これが最低限求められる「和」でもある。


私の理想のチームのイメージとしては、漫画「ONE PIECE」の麦わらの一味のような感じ。

まぁ、彼らは目標(目的)自体がてんでバラバラではあるんだけれども。

それでも彼らがまとまっているのは、船長であるルフィの人間的魅力のお陰であり、それを考えるとチームにおけるリーダーの役割というのは大きいなと思う。

もちろんあんなカリスマ性を誰もが持っている必要はないわけで、だからこそ共通の目標でまとまる必要があるのである。

良いチームって、向かう方向とか軸がしっかりしてるよな、と世の中のいろんなチームを見ていて思う。

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繋がる世界の泳ぎ方

先日、サブブログの方でこんな記事を上げていた。

syuten00.hatenablog.com

私は主にDCG(デジタルカードゲーム)を好んでプレイしていて、ときどき攻略記事まがいのものを書いたり、感想を書いたりしている。

ただこの記事はタイトルからもわかる通り、攻略記事でもなければ感想でもない。

最近、DCG界隈ではサービス終了となるゲームがたくさん出てきている。

当たり前の話ではあるが、企業だって遊びでゲームを作っているわけではなく、それで儲けようと思って作っているのである。

実際、荒稼ぎしているスマホゲームはたくさんあるし、そういったゲームの稼ぐ手段である「ガチャ」が時折批判の的になったりもするのだが、ことDCGに関しては構造的に非常に儲けるのが難しいジャンルになっている。

ではDCGはどのように稼いで生き残っていくべきかを勝手に考えて書いたものが上掲の記事である。

まぁ、一ユーザーの足りない頭で考えたものである。

 

私のtwitterアカウントは結果的にゲーム専用アカウントとなっているので、ゲーム記事に関してはtwitter連携するようにしている。

この記事も同様。

twitterでの私のフォロワー数は250くらいなのだが、実際にアクティブに私のツイートを見ている人は30前後ではないかと思う。

いろんなゲームをやっていてそれぞれのタイトルごとにフォロワーがいたりするので、いつもツイートに「いいね」があったりリツイートされる数は10前後くらい。

世の中という大海からすれば井戸にもならないくらいの狭い内輪の世界である。

大体がツイートしていくらもしないうちに大海に沈んでいく。

まぁこちらも「少しでも多くの人に見てほしい!」と思って必死になっているわけではなく、このブログ以上に吐き捨ての呟きみたいなものなのでそれで構わないと思っている。

 

だがこの記事は少し違っていて、30を超えるくらいリツイートされた。

面白いなと思ったのは「いいね」と同数くらいリツイートされている(つまり拡散されている)ということと、ツイートしてからしばらく細く長くリツイートされたことである。

最初はもちろん私のフォロワーさんたちがリツイートしたりしていたのだが、だんだんまったく初見の人がリツイートしたり、「良記事」というコメント付きで引用ツイートされたりしていた。

水切り石みたいだなと思った。

しばらく沈まずに、知っている人から知らない人へ、知らない人から知らない人へ、少しずつ遠くへ伝わっていく。

数で言えば相変わらず大したことはないし、まぁそれでいいのだが、世の中のいわゆる「バズる」ツイートやブログ記事というのは、こうやって作られていくんだろうなということを垣間見た気がする。

面白い仕組みだなと思うと同時に、畏怖のようなものを感じたのも正直なところである。

 

 

私たちが生きている世界というのはいつの間にかそのように変容していて、教わってもいないのにそんな世界で溺れないように泳ぐことを求められている。

別にSNSを使わなくても生きていけるし、ネット環境から隔離されても生きていくこと自体は可能である。

ただ繋がる世界と距離を置くという選択は決して軽いものではなくなっている。

そのこと自体が事の大きさを表していると思うのである。

単なるコミュニケーションの在りようだけでなく、社会そのものの形まで変わってきている。

例えば今ではLINEで連絡することは当たり前のようになっているが、もちろん世の中にはスマホさえ持っていない人もいる。

ただLINEで連絡する人が大多数になってしまえば、LINEで連絡の取れない人はコミュニケーションから排除されることになるのである。

今ならその状況は「LINEを使っていない人への配慮が足りない」と言われるかもしれないが、LINEが圧倒的な市民権を勝ち得てしまえば、利用しない人のために別の連絡手段をとること自体が社会的なコストとみなされるようになるだろう。

今だにパソコンをまともに使えない中高年のサラリーマンはそこそこいると思うのだが、そういった人たちはビジネスの現場においては残念ながら「お荷物」になっている。

それと同様のことが、新しい物事に対応できないと起こり得るのである。

もちろん、私自身にも。

 

 

しかし、どれほど簡単に見知らぬ人と繋がれるようになったとしても、主体が人であることには変わりないし、繋がる仕組み自体も人が作り、人の手で動かしているものなのである。

私たちは得体の知れない海に浮かんでいるのではなく、どこまでも人の手のかかっていて、生身の人間のいる世界と形を変えて繋がっているだけなのである。

そこには対面して人と接するときのように好意も悪意も溢れているし、筋の通った意見は受け入れられるし、理不尽な意見は怒りを買う。

 

当たり前の話だが、「リアル」と「ネット」のように世界が分かれているのではなく、在るのは「リアル」のみで「ネット」というフィルターを通して発信したり受信したりできるようになっただけなのである。

だから根本的な人と接する技術や相手に物事を伝える技術というのは、やはり求められてくるのではないかなと思う。

 

 

 

まぁそんなことを言っていても、そのうちやり取りする相手のほとんどがAIになる世界がこないとも限らないし、会社や学校に行かずに家で仕事をしたり授業を受けたりするようにならないとも限らない。

それもまた、変わるときはいつの間にかそんな世界がやってきていて、世の多くの人はあたふたしながら時代に追いつこうとするのだろう。

泳いでいるというより、流されているという方が近いかもしれない。

溺れないようにだけはしたいものである。

「カフェでもやりたい」という妄言

ゲーム記事は何本か書いていたのだが、こちらは放置してしまっていた。

そのままにしておくと書かなくなってしまうかもしれないので、リハビリというか間つなぎに適当に日記でも書くことにする。

書いてなかったということは書く時間がなかったか書きたいことがなかったかで、今回は特に書きたいことがなかった。

比較的ダラダラとした正月を過ごし、開けて仕事が始まっても大した仕事はなく、翌週以降の出張のアポイントを取っていたくらいである。

時間があったら作りたいと思っていた資料はあったが、それは早々に完成してしまった。

おかげで正月たっぷり休んだばかりだというのに、溜まっていた振替休日を消化することができた。

ありがたいやら、なんとやら。

まぁ来週以降はまた忙しくなるので、ただのタイミングの問題ではある。

 

前回ブログを書いたあと、初めてバンドのメンバーで集まって練習した。

私を誘った同僚とその奥さん、会社の後輩、同僚が教わっている音楽教室で一緒になった女性、そして私の5人である。

私にとって初めましてはボーカルをやってくれる音楽教室の女性くらいで、緊張するメンバーではないのだが、皆それなりには演奏できる中、コードすらまともに読めない私が参加すること自体は非常に緊張する。

で、やってみたのだが、とても楽しかった。

いや、私はすごく簡単なことしかしないくせにそれすらまともにできない下手くそっぷりを披露していたのだが、周りが上手なのでそれっぽくなり、なんだか参加してる気分を味わわせてもらえた。

2曲練習してくる予定だったのだが、私はとても2曲も覚えられないので1曲だけ。

もう1曲はギターなしで演奏していた。

何もせずにただ聞いていると、私のギターなんてなくても同じなのは瞭然である。

ボーカルの女性はギターもベースもでき、ベースをやってくれた後輩はドラムが本業で、ドラムをやってくれた同僚の奥さんは歌えるので、それぞれ楽器を変えて遊んだりしていた。

ちなみにキーボードをやってくれた同僚は、ギターもベースもそれなりにできる。

自分ももう少しまともに弾けるようになりたいなと思わされた。

 

練習が終わった後は、みんなで軽く飲んでお開きとなった。

で、次はこれを練習しようと課題曲が決められた。

私はコードが載ってる楽譜を渡されてもまったく理解できない。

だからまた今度、同僚に教えてもらうことになっている。

前に進んでいるのかどうか甚だ怪しいレベルだが、一応練習は続けているし、やろうという気持ちはある。

楽しかったし。

私を巻き込んだ同僚は、私がろくに演奏できないことを知りながら「とりあえず楽しんでもらえたら続けてくれるだろう」と目論んで私を誘っているので、これは術中に嵌っていると言える。

こういう楽しい謀りなら喜んでのせられたい。

 

昨日は妻と近くのカフェでランチをしてきた。

なんでも、昭和レトロな雰囲気のこじんまりとした小さなカフェ(食堂?)があるらしいとのこと。

妻はときどき散歩をしながら「何か面白いものはないか」といろいろ探しているらしいのだが、完全住宅街でエンターテイメントに類するものは何一つない地域なので見つからず(だから暮らしやすいのだが)、せめてオシャレなカフェでもないかとネットで探したらしい。

妊娠している妻は胎動が結構痛いらしく、普段は買い物や散歩くらいであまり遠出をしない。

やりたいことはいろいろあるらしいのだが、そのせいで集中できないらしいので、わりと鬱屈している。

たまの気晴らしくらい付き合わないとなと思う。

 

家から歩いて10分くらいで行けるそのカフェは、雰囲気はカフェだが「〜食堂」と銘打っていて、どうやらメインはランチらしかった。

メニューは日替わりと月替わりの2種類のみ。

飲み物とスイーツはいくつか種類があった。

たぶん、ご夫婦とバイトの女性の3人で切り盛りしているようで、こじんまりしているが逆にその雰囲気が良かった。

レトロがウリで、それらしい小物もたくさん置いてあるのだが、個人的にそういう「仕組まれたレトロ」はオシャレすぎて逆にあまりレトロさを感じない。

やはり「レトロ」なんてものは、通り過ぎた歳月が醸し出す発酵臭のようなもので、もっと存在から湧き立つようなものだよなと思う。

食事は美味しかった。

デザートやコーヒーまで美味しく、細部までこだわりが感じられた。

 

こういうカフェをやってみたいなぁと夢想する。

私は数年後には妻の実家に移って義父と同居することが最早既定路線になっている。

妻の実家は関東近郊というにはあまりに東京から遠く、単に田舎というよりは保養地に近い地域である。

もし私が今の会社に勤め続けるなら、新幹線通勤でもしないといけない。

それでも家賃がかからないことを考えればアパートを借りてるよりは安いし、妻の実家は元々二世帯用に建てられているため7LDKくらいあって広さも申し分ない。

だから私が「No」と言う理由はない。

別に義父が嫌いな訳でもない。

 

ただそうやって1時間半ほどかけて新幹線通勤するくらいなら、いっそ脱サラして妻の実家の近くでカフェでもやってた方が楽しいだろうなと思う。

観光客はそこそこ来る地域なのだが、温泉以外に目玉になるようなものがあまりない。

ご飯を食べるところもあまりない(スーパーすらほとんどないが)。

経営的に成立する可能性はまずまずあると思う。

金は借りればいいし、場所(土地)ならいくらでもある。

チャレンジするだけの現実性は十分にあると考えられる。

だがこういうのは実現可能性を検討するまでが楽しいのであって、実際に動き出したらプレッシャーや実働量でものすごく心身に負荷がかかる。

それを考えれば、私がサラリーマンという比較的安定した地位を捨ててまで飛び込むだけの理由と合理性はない。

たぶん周囲も絵空ごとだと思うだろう。

だってありきたりじゃないか、脱サラしてカフェでもやろうなんて。

私だって他の誰かが同じようなことを言っていたら止める。

 

休みすぎて正月気分が抜けきらないままに、そんな妄想をしていた。

特にやることもない世間的な3連休。

他は存分にゲームばかりしている。

何もないことのありがたみを噛み締めている。

2019年の抱負 〜『「ギターが趣味です」と言えるレベルまでギターが弾けるようになる』〜

今週のお題「2019年の抱負」

 

年末、年賀状を出そう出そうと思っていたら、クリスマスが過ぎてしまった。

慌てて年賀状を買ったのだが、その後で「そういえば喪中じゃない?」と妻から指摘された。

そういえば、2018年は祖母が亡くなっていた。

時すでに遅し、覆水盆に返らず。

たぶん、郵便局に持っていけば寒中見舞いと変えてくれると思うので、それで新年の挨拶に代えることにしようと思い直す。

引っ越して住所が変わっている連絡もしていないし。

 

年末はおまけに風邪を引いていた。

syuten0416.hatenablog.com

たぶん美容院に行ったときにうつされたのではないかと思う。

この記事を書いている最中は平気だったのだが、その後、喉が痛くなり始めた。

「部屋が乾燥しているせいかな?」と思っていたのだが、翌日の昼くらいには悪寒と筋肉痛が始まり、風邪を引いたのだと自覚した。

本当は先に実家に帰った妻と合流する予定だったのだが、さすがに風邪っぴきが行っても邪魔になる。

それどころか妊娠中の妻にうつす恐れもある。

ということで、一人で新年を迎えることになった。

なんとも冴えない年越し。

 

風邪をひいたと認識してからは、加湿器を起動し、とにかく暖かくし、なんとか食べられるカップ麺と野菜ジュースでしのぎ、回復に努めた。

風邪は薬では治らない。

薬で症状を抑えながら、あとは自分の免疫力で治癒を待つだけである。

それなりに生きていれば、自分の身体の感覚というのはわかってくる。

このあたりの対処はお手のものである。

早めの対処が効いてか、31日の朝に高熱を発したものの、それがピークですぐに熱は治り、ダメージは最小限で抑えられた。

おかげで風邪をひいてはいたが、それなりに元気のある状態で年末年始を過ごすことができた。

まぁそれでも出力は70%くらい。

まだまだ安静にしていないと簡単にぶり返しそう。

症状が治まっても、風邪のウィルスが完全に除去されるのに最低でも1週間くらいはかかるそうである。

油断大敵。

 

とはいえ、それなりに元気が出れば時間を持て余すもので、年末はNINTENDO switchでひたすらスマブラをやっていた。

あとはギターの練習。

ギターはどう考えても年明けのバンドメンバー(仮)での練習に間に合わないと思っていたのだが、そのメンバーを集めている同僚がすごくコードの簡単な曲を選んでくれ、おまけに自分で動画まで撮って練習用に送ってくれたので、なんとか人に聞かせても音楽だとわかるくらいにはなったと思う。

それまでは私のギターなど、ただの雑音でしかなかった。

今ならとりあえず「下手だけど頑張っている」とは認識されるだろう。

 

元日には妻の実家に赴き、地元の小さな神社に初詣をしたり、親戚に挨拶をしたり、義妹夫婦と義実家一同で鍋を囲んだりした。

自分が風邪をひいているということを除けば、極めて穏やかな正月である。

自分の実家に帰省することをやめてしまえば、かようにのんびり過ごせるのだが、まぁそれが人間関係の難しいところ。

あちらを立てればこちらが立たず、結局はどこかで誰かが不満を持つことになるのである。

だったら自分や妻が多少バタバタしても、互いの親に喜んでもらえる形をとろうかというのが現在である。

そんなめんどくさい人間関係が嫌で、ずっと独り身だったわけでもあるのだが、それは引き受けると決めたことでもあるので文句を言うわけではない。

結局は、何を選んで、何を選ばないかである。

 

いつも通り前置きが長くなったが、2019年の抱負の話。

ちなみに2018年はこんな抱負を掲げていた。

syuten0416.hatenablog.com

「子供を作る」だったから、とりあえず妻が妊娠した段階で達成していることになる。

まぁまだ無事に生まれてくるかはわからない。

すでに生まれているなら「子育てを頑張る」とか適当なことを書いておけばいいのかもしれないが、現状では見切り発車である。

そもそも「子育てを頑張る」というフレーズにすごく違和感を感じる。

まあ、それは別の話。

 

2019年の抱負は『「ギターが趣味です」と言えるレベルまでギターが弾けるようになる』とする。

わかりにくいね。

しかし、「上手になる」という目標では具体性に欠けるし、「〜が弾けるようになる」と具体的な曲名やスキルを挙げられるほどの現状にはない。

『「ギターが趣味です」と言えるレベルまでギターが弾けるようになる』という抱負には、「ギターが趣味です」と言えるかどうかという明確な指標でありながら、自分で言い切ってしまえばそれで達成という主観性が含まれるという、高度なシステムを採用している。

さらに、「ギターが趣味です」と言い切ってしまって抱負のハードルを下げにかかることが、「その程度で趣味って言えるの?」という矜持および恥と相反関係になっている。

つまり、達成できたかどうかが明確な抱負でありながら、多少融通を利かせられる(自分のプライドと引き換えに)抱負なのである。

まぁ、胸を張って「趣味です」と言えるようになるレベルまで上達することが一番なのは間違いない。

 

本当はランニングも頑張りたいのだけど。

最近、微妙に疲れが取れなくなって、あまり前向きになれない。

今、抱負に掲げると、確実に達成までの道のりが苦痛になる。

年始は箱根駅伝をかなり長時間見ていた。

巷には、触発されたランナーがうようよ沸いていることだろう。

私も本気で取り組んでいた時期がある身としては、今年も見ていて胸が熱くなるレースだった。

でも、「よし、じゃあ走ってくるか!」とならない。

これはモチベーションが重症である。

まだ風邪が治っていないので、体力がないことも原因かもしれないが。

 

そんなこんなで、今年も毒にも薬にもならないような、くだらないことばかり書き散らしていきたい。

最近自分で読んでいて思うのだが、「毒にも薬にもならない」と副題に記しておきながら、結構「毒」がたくさん盛られている気がしている。

副題、変えるかな。

なにはともあれ、今年も宜しくお願い申し上げます。

どなたにも良い年が訪れますよう

昨日は仕事納めだった。

一昨日の夜は出張先のホテルで12時間寝ていた。

しばらく働きづめで、よほど身体に負担がかかっていたらしい。

今年は1月4日が休みとなり、私にとっては稀に見る長さの年末年始休暇となる。

今のところ、休日出勤の予定もない。

今年は自分の実家に帰る予定もない。

少しゆっくり骨休めしたいところである。

 

髪を切りに行った。

少し前から長さが気になり、切りに行きたいと思っていたのだが、なかなか時間を作れなかった。

年末年始は自分の実家には帰らないが、妻の実家には帰る。

ボサボサの頭で義父に会うのも印象が良くないかもしれない。

この際、身綺麗にして新年を迎えるというのもいいだろう。

 

引っ越してから美容室を変えたのだが、前回初めて行ったところでは前髪をパッツンと切られて少し嫌だった。

また別のところにしようかと思ったが、同じ人が切るとは限らないし、何よりまた探すのが面倒だったので結局同じところにした。

今回は女性の美容師だった。

私は髪を切られているときに会話をすることは好きでも嫌いでもない。

ただ美容師というのは、そういうコミュニケーションも大切な業務だと認識しているからか、概ね話しかけてくる。

聞かれたことは返すし、場合によっては聞かれたこと+αの回答もするが、私は自分から世間話を振ることはない。

簡素な私の返答に、多くの美容師は「この人は会話があまり好きではないんだ」と思うのか、そこで安心して髪を切ることに集中する。

それでも会話を続ける人は「コミュニケーションは大切」という認識がある人だと思うし、概ねそういう人はコミュニケーションに自信があるもので、だから当たり障りのない話を続けることに長けていると感じる。

 

今回髪を切ってくれた美容師は、「自分が喋りたいから会話する」みたいな感じで、少し独特だった。

会話の最初の一言が「年末は実家に帰ったりするんですか?」である。

初球にフォークボールを投げられたような気分だった。

それを聞くなら最初に出身地を聞くような気がする。

実家がすぐ近くかもしれない。

あるいはまだ実家に住んでいるかもしれない。

いや、それらのバックグラウンドをこの一つの質問で明らかにしようというのか。

それなら大したものである。

 

しかし彼女は続けて、自分の出身地が鹿児島であること、帰省の飛行機が取れなくて新幹線で帰ることを話し始めた。

たぶん、その話をしたかったのだろう。

なんなら美容室も年末で混雑する時期である。

この会話を今日の鉄板ネタとして、どの客にもするつもりなのかもしれない。

私も九州には出張でよく行く。

鹿児島のどこかと聞こうかと思ったが、プライベートな話題かと思って遠慮した。

が、彼女は自ら出水だと言った。

「出水はそこらへんに鶴がいますよ〜」と、彼女は独特なのんびりした口調で会話をつなぐ。

そう、出水といえば鶴の飛来地として有名である。

そんな話をすると、「出水なんて、よく知ってますね」と言われた。

まぁ出水がそれほどマイナーな土地だとは思わないが、日本人の平均よりはいろんな土地を訪ねたり、住んだりしているだろうし、いろんな情報に目を通したりすることは確かである。

 

世の中にはいろんな人がいて、それぞれがいろんなバックグラウンドを持っている。

その集合体が社会である。

ときどきこうして、誰かの歩みと歩みが重なる。

一時かもしれないし、また交わるかもしれない。

私たちは全体に対しての部分でしかない。

それは誰もがそう。

部分はあってもなくても同じもの。

取り替えは効く。

「かけがえのなさ」というのは個人が作り出す価値観で、それは誰もにとって同じ重みを持つわけではない。

誰かの大事な人は誰かのどうでもいい人。

だから広い視点でいうなら、世界全体にとって「大した価値はない」という点で人はみな等価だと言える。

もちろん、そこに自分で価値を付け足すことは悪いことではない。

皆そうやって「何もかもがどうでもいい世界」の中で、「自分だけの素晴らしい世界」を作って生きている。

美しい幻想。

 

「たくさん切れましたね〜」

切った髪を払いながら、彼女は言った。

独特の言い回しが可笑しい。

切ったのはあなただろう、とツッコミたくなる。

「うん、爽やかな感じでいいと思いますよ」

続けてそう言った彼女は、鏡の中で少しはにかんで笑っていた。

彼女には彼女の人生があって、今ここにいる。

それはまた別のお話。

そういう想像も及ばない人生たちがいっしょくたにされたおもちゃ箱が世界。

良いも悪いも邂逅は縁。

ご縁があれば、また。

 

年末年始はギターの練習をしなければならなくなった。

バンドメンバー(予定)と合わせるらしい。

私はまったく引けないまま。

到底、人に聞かせられるレベルにないが、頼み込まれて参加することになってしまった。

「やりたい」の少ない私は、誰かの「やりたい」に概ね巻き込まれる形で何かをすることになる。

まぁ、それも人生。

きっと来年もそんな感じ。

いいさ、それで周りが満足なら。

そういう生き方を選んでいるわけでもあるし。

明日からは妻の実家なので、更新は年内はこれが最後。

年末年始、私は海沿いの広い一軒家の片隅で、聞くに耐えないギターを鳴らしていることだろう。

それでは皆さま、よいお年を。