異呆人

毒にも薬にもならない呟き

世界は誰かの仕事で出来ている

前にも書いたような気がするが、数年前から世の中のいたるところに「人の手」があることを感じてしまう。

私は以前に建築資材を販売する商社に勤めていたことがある。

だから建設中の工事現場などを見ると、「何が建つのかな」ということ以外に、一体これが完成するまでにどれくらいの人の手がかかるかなと考えてしまう。

例えば建物の場合、材料のメーカーがあり、それを販売する会社があり、材料を加工する会社があり、実際に建てる会社がある。

現場によってはその仕事の元請けのゼネコンがいたり、大きな資材を運ぶための専用の運送屋がいたり、塗装をする会社がいたり、内装をする会社がいたりする。

もちろんそれ以外にも書き切れないほどの人の手を経て、一つの建物が出来上がる。

中には「それって必要なの?」と思うような要素もあるわけだが、概ねそれらのどれが欠けても不十分だし、同時にどれも一部でしかない。

すごくミクロなレベルだが、自分の存在が世界のほんの一部であることを認識させてくれる。

自分に見えている範囲が世界のほんの一部であることを認識させてくれる。

実際には見えない多くの「人の手」が関わっているだろうことを想像してしまうのである。

 

先日、取引先の新店オープンの手伝いに行ったのだが、オープン日にも関わらず準備がまったく終わっておらず、普段ならしないことまでバタバタと手伝った。

その日、私は商品棚への品出しとJANコードの貼り付けを手伝った。

JANというのはバーコードの一種である。

普通のバーコードは商品の外装に印字されている。

それをレジに通すわけだが、あれも初めから値段が入っているわけではなく、「このバーコードの商品はいくら」というのを店に来てから登録している(たぶん)。

だから特売のときなどは個別に登録されている値段を変える(はずである)。

これは普通の店の話で、中には大きな小売店の中に別の店が入っていることがある。

例えば、スーパーの鮮魚コーナーを運営しているのが、スーパーではなく外部の魚屋さんであるような場合である。

その場合、魚の売上は魚屋さんに入るのだろうが、レジは魚屋のレジではなくスーパーのレジを通すことになる。

だからスーパーのレジを通ったときに「いくら」というのが表示され、それがスーパーではなく魚屋さんの売上であるとわかるように別のバーコードを貼らなければならない。

私も普段使っているわけではないので半ば知ったかぶりだが、この魚屋さんのバーコードがJANである。

 

私は値段の登録されたバーコードを、貰ったリストと突き合わせてペタペタ貼っていただけなのだが、貼り間違えると大変なので些か緊張した。

似たような商品がたくさんあり、慣れている人なら見たらわかるのだろうが、私にはとても判別できない。

まして出力されたJANに印字されている値段がおかしいことなど気付きようがない。

いや、実際そういうことがあって、同じように手伝いに来ていたメーカーの人はすぐに気付くわけだが、私は何の疑念も抱かずにJANを貼っていた。

そしてJANを貼りながら、一般の人の多くは店に同じように並んでいる商品の中に、別の店が売っている商品があることなど気付かないだろうなと思った。

私も仔細に見れば気付くが、普段の買い物でそんなことは気にしない。

たまに商品に関する質問をして、「すみません、こちらはあちらの店の商品でして…」などと言われて「あぁそうなのね」と思う程度である。

 

この前、某大手量販店でエアコンを買ったときも、取付工事は当然ながら別の業者だった。

工事業者というより、たぶん街の電気屋さんだった。

ああいうところはどうやって商売が成り立っているのだろうかと思っていたが、なるほどそうやっていろんな下請けもして、しぶとく生き残っているのである。

それから昨日スーパーで買った野菜もJANが貼ってあった。

農家の直販スペースのようだったので、売上をスーパーとは別にしているのかもしれない。

包装が若干適当だったが、農家のおばちゃんが手で野菜を袋詰めしてセロテープで止めているところを想像して、まぁ仕方ないなと思うことにした。

世の中の物事の多くには、傍目に見えるよりもっと多くの人が関わっている。

自分たちが知らずに過ごしているだけで。

だから自分に見える範囲で何か不都合があったときに、必要以上に追及するのも大人気ないなと思うことがある。

不都合を起こしたように見える対面している本人に、実はまったく非がないこともあるだろう。

諸々の事情を考慮すれば避けようのないこと、悪意のない小さなミスの積み重ねであることもあるだろう。

人の手の入ることなのだから、100%ミスがないとは言えない(ミスを避ける努力は必要である)。

ちょっと想像力を働かせることで、「次から気をつけてね」と笑って許せることもあるかもしれない。

 

さておき、今朝乗った飛行機で隣の人が仕事の資料を広げていた。

チラと目に入った文字に「捜査資料」とあった。

あぁ警察の人なんだね、ほんと、世の中いろんな仕事をしてる人がいるよね。

と思って流したいところだが、人目があるところで捜査資料を広げるのはいかがなものか。

それ、オープンにできないこととか、個人情報とか載ってるんじゃないの?

ほら、次のページ、聴取メモって書いてあるよ。

まぁこう考えると、人の手の入ることとはいえ、笑って許せないやっちゃいけないこともたくさんあるわけで、皆さんお仕事をされるときは十分気をつけてください。

これは自分に返ってくるブーメランでもあるけれど。

クロノマギア日記 〜初心者向け②:基本的な戦い方〜

ゲーム記事を書くのは久しぶり。

クロノマギアに関しては、しばらく触っていないほどだった。

久しぶりにプレイしてみたのは、同じガンホーが制作しているパズドラとのコラボの新カードが出ていて、環境が変わったかなぁと思ったからである。

どんなデッキが流行るかの環境は、変わらない状態が続くと飽きてしまう。

延々と同じような対戦を繰り返すことになるから。

最後にプレイしていた頃も自分の中でマンネリになってしまっていたので、しばらく離れることにしたのだった。

久しぶりにやってみて、やはりクロノマギアの戦略性は高いなと思った。

難しいが、面白い。

 

新しいカードもそこそこ手に入ったが、あまり使いたいものが見当たらなかったので、以前に組んだデッキをそのままにランクマッチを回してみた。

第2弾にあたる「凰牙の聖戦」の追加カードが入る前に離れていたので、およそ2クール前のデッキと言える。

環境についていけないかと思いきや、なかなか負けない。

まぁランクマッチも下位レートからスタートしているので、そのせいでもある。

しかし、そのせいでもあるのだが、相手のプレイングに助けられた面もあると感じた。

「負けたかな」と思ったゲームも拾えたことがあった。

これは私が上手いとか強いとかではなく、それだけ下位レートにいる新規のプレーヤーにとってクロノマギアが難しいカードゲームなのだと思う。

難しいと言うのが語弊があるなら、独特だと言ってもいい。

なので久しぶりに初心者向けに攻略記事紛いのものを書くことにする。

パズドラコラボで取り込んだ新規ユーザーに定着してもらえないのは、クロノマギアとしてもったいない。

ちなみに以前にもすごく簡単な記事を書いているので、併せて読んでもらえれば。

今読むとだいぶ古いなと思う部分もあるが、基本的な考え方は同じである。

クロノマギア日記 〜初心者向け:セットとサモン〜 - 異呆人

今回は私のデッキを例に、基本的なプレイングを解説してみたい。

 

①スキルを軸に戦う

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これがしばらく前に使っていた、環境に置き去りにされたゼータのデッキ。

スキンがパズドラキャラのヘラになっているが、中身は新弾要素が一切ない。

いわゆる「煽動ゼータ」と呼ばれるデッキタイプで、マギアスキル2の「煽動」で相手クリーチャーを強制サモンして一方的に攻撃し、盤面優位(クリーチャーの量と質での優位)をキープしながら戦うデッキである。

クロノマギアは能力者ごとに設定されているマギアスキルが強力で、それを軸に戦うことになる。

スキルを効率的に使えるようにデッキを構築する必要があるし、スキルに合わせてクリーチャー展開する必要がある。

クリーチャーをただ展開して殴っていればいいカードゲームではない。

スキルを使用するにはスキルごとに設定されたスート(スペードとかハートとか)とタイプ(竜とか悪魔とか)を、場にサモンされたクリーチャーが保持している必要がある。

つまりクリーチャーは軸とするスキルが可能な限り使えるようにデッキに組み込み、場に展開しなければならない。

 

例えば上記の煽動ゼータは、名前の通りスキル2の「煽動」を軸に戦うデッキである。

「煽動」の条件はスペード2つなので、クリーチャーを展開するときはできるだけスペードを持つクリーチャー2体がサモンされるようにしなければならない。

だからこのデッキにはスートがスペードのクリーチャーしか入っていない。

いくら能力の優秀なクリーチャーでも、スキルと関係ないものをデッキに入れると肝心なところで足を引っ張る。

それから、クリーチャーを場に出すときも注意しなければならない。

多くのカードゲームはターン初めにMP(マナ)が全回復するので、余っているとクリーチャーを展開したくなる。

しかしクロノマギアはMPの回復量が能力者ごとに限られているので、「MPを残す」ということが非常に重要になる。

「場に出せるから」といって、ちまちまクリーチャーを展開していると、攻撃側しかダメージを与えられないためスキルの使用条件を達成する前にクリーチャーが倒され、肝心のスキルが全然使えなかったりする。

どのスキルを軸に戦うかによってデッキ構築も変わるし、それに合わせてクリーチャー展開の仕方も変えるのが基本である。

ちなみにこのデッキでは、スキル3の「レイジオブスペード」を使うことは想定していない(使えないことはない)。

だから水棲タイプのクリーチャーは無理に入れず、クリーチャーのスタッツ(攻撃力とライフ)を重視してデッキに組み込んでいる。

 

②ターンスキップすることを恐れない

①で少し書いたが、クロマギではMPの回復量が限られるため、MPを残すことが非常に重要になる。

スキル使用条件が達成できるようにクリーチャーを展開できないなら、クリーチャーをセットしないというのも大切な選択になる。

特にゲーム開始1,2ターンは、MPが少なく満足に行動できないことが多いので、お互いにただターンエンドするだけということがよくある。

最初のうちは何もしないと不安に感じることもあるかもしれないが、クロマギの戦闘システムではクリーチャーのセットが相手より遅れることが必ずしも不利なわけではない。

もちろんこれが正解となるかは自分と相手のデッキタイプによって変わるのだが、基本的なプレイングのスタイルとしてターンスキップが必要だということは知っておいた方がいい。

例えば上掲の私のデッキは初期MPが2、MP回復量が4となっている。

つまり先攻の場合、最初のターンで使えるMPは6。

軸として戦う「煽動」が使えるようにスペードを2体並べるには、3マナクリーチャーが2枚手札にないといけないし、3マナを2体並べてMPを使い切ってしまうと次のターンに使えるMPは回復する分の4だけになる。

行動の選択肢がかなり狭まってしまう。

しかし1ターンスキップすることで、次のターンにはMPが10になる。

MP10あれば4マナのクリーチャーを2体並べてもMPが2余り、また次のターンにはMP6が使える。

常にMPに余裕を持たせるためにも、ターンスキップが大切だということがわかる。

 

③能力者を攻撃するタイミングを選ぶ

②とも関連するが、クロマギの大きな特徴として「ダメージを受けるとその分MPが増える」というものがある。

相手(能力者本体)を直接攻撃するということは、その分相手のMPを回復させるということであり、次のターンに相手に多くの行動を許すということになる。

場合によっては手痛い反撃を受け、形勢を一気にひっくり返されかねない。

とは言っても、ダメージを与えることで相手MPが増えることを防ぐ手立てはないし、ダメージを与えなければ倒すこともできない。

つまりダメージを与えることのデメリット(MPが増える)が極力小さいタイミングで、能力者に攻撃を仕掛けることが大切である。

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例えば、上記の画面は攻撃を仕掛けられるタイミングである。

サモンされている2体のクリーチャーとスキル1の「捨て身の一撃」でダメージを与えるとこうなる。

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合計7点のダメージを与えたので、相手のMPが7増えている。

MPの上限は15、相手の能力者ルルナのMP回復量は5。

攻撃することで相手のMPが14まで増えているが、MPは15以上に増えることはないので実質的にはMPが1しか増えないのと同じである。

攻撃のタイミングを選ぶことで、ダメージを与えることでのデメリットを極力小さくすることができる。

 

では、上の画像で相手のMPが1だったらどうするか。

相手の場にクリーチャーがおらず、能力者を攻撃する絶好の機会のようにも見えるが、何もしない。

相手に反撃の機会を与える可能性があるからである。

ターンスキップして相手のターンになっても、相手のMPは5回復して6になる程度である。

MP6ではカード1枚をプレイするのが精一杯であることが多い。

クリーチャーをセットされても1体なら、特にこの煽動デッキなら何とでも対処できる。

クリーチャーを2体セットするためにMPを貯めようと、相手がターンスキップしてくるならそのときが攻撃のチャンスとなる。

この攻撃のタイミングも、自分と相手のデッキタイプ、相手の手札の量などによって正解は異なる。

待つことがどんな場面でも正しいとは限らない。

ただ多くのカードゲームと違って、可能な限り相手本体のライフを削ることが最適なわけではない、ということは知っておく必要があるだろう。

 

長くなったので、今回はここまで。

ある程度カードゲームに慣れ親しんだプレーヤーなら、やっているうちにこういったことには気づくだろう。

ただ、パズドラコラボをきっかけにクロマギを始めたようなプレーヤーの中には、わけもわからないうちにボコボコに負けてしまい、面白さを感じる前にやめてしまう人もいるかもしれない。

基本的な戦い方を知ることで、そういった人が少しでも減って、カードゲームを楽しむプレーヤーが増えてくれればいいなと思う。

あっ、あと、ソロプレイのパズドラと違い、クロマギは対戦ゲームである。

ネットの通信の先には相手がいる。

負けそうだからといってタスクキルをして通信切断するのはマナー違反である。

負けが確定して諦める時は、降参ボタンを押すことも基本的な戦い方である。

 

当たり前が当たり前でないという当たり前

相変わらず他人のブログでスターをつけられたりつけられなかったりするし、なぜか最近読者登録しているブログの更新通知も届かなくなった。

私はさほど多くの人を読者登録をしているわけではないので、更新通知をメールで受け取るようにしている。

それが届かない。

他のメールは受け取れるし、設定は変わっていない。

大した不満ではないのだが、ちょっとした不満が積み重なるとそこはかとなくストレスを感じる。

はてな」以外に移住しようかなとも思うが、そこまでするほどのことかというとそうではない気がするし、そもそもめんどくさい。

 

そんな今日この頃、妻と義父と一緒に私の地元である大阪を旅行してきた。

私にとっては旅行というより案内である。

ベタな観光地というのは地元の人間は行かないものだし、それどころか初めて行ったような場所もあったので存外悪いものではなかったが、それでも疲れたことには間違いなかった。

義父との仲は良いが、気は遣う。

親戚付き合いというのはすべからくそういうものだろうが。

 

一応、平日に休みを取って出かけたので会社の人へのお土産を買ったのだが、それ以外にも妻が自分用にチーズケーキを欲しがったので買った。

www.rikuro.co.jp

知ってる人には有名だろうし、知らない人はまったく知らないだろう大阪の銘品。

私の実家の近くに店があり、私はここのチーズケーキを食べて育ったと言っても過言ではない。

いや、それは言い過ぎか。

昔はそれほど店舗がなく、本当に地元の銘菓といった感じだったが、最近は新大阪や梅田なんかに店があり、旅行客もわりと手に入れやすくなったと思う。

私にとっては地元出身のプロスポーツ選手みたいな存在で、地元の有名な食べ物といえば胸を張ってこのチーズケーキを勧めている。

だから以前に妻へのお土産として買って帰ったことがあった。

どうやらそれで気に入ったらしく、今回も買って帰ることとなった。

 

このチーズケーキの特徴は恐ろしくふわふわな食感と滑らかな舌触りにある。

ベイクドチーズケーキでもなく、レアチーズケーキでもない。

それらとはまったく別の食べ物と言っても過言ではない。

こちらは、本当に。

だからチーズケーキといえばこれしか食べたことのなかった幼少時の私は、初めてベイクドチーズケーキを食べたときに衝撃を受けた。

茶店でチーズケーキを頼んだら、ふわふわのチーズケーキでなくカチカチのチーズケーキが出てきたのである。

少年にとっては筆舌に尽くしがたい驚きだった。

余談だが、このチーズケーキは1ホール695円(昔は500円だった)と破格の手頃さであり、1時間に何度も焼きたてを提供しているし、レーズンが入っているのだが事前に頼めばレーズン無しも作ってくれる。

素晴らしい店である。

 

なんだか本当に書きたかったことからだいぶ回り道をした挙句に少し逸れた。

別にりくろーのチーズケーキの宣伝をしたかったわけではない。

そうやって自分が当たり前だと思っていることが、ごく狭い範囲での当たり前でしかないことがよくある、ということを言いたかったのである。

以前にもそんなことをブログに書いた気がするが、特に食べ物についてはどうしてもその「当たり前」の違いを強く感じてしまう。

結婚して毎日のように食卓を同じくしているとなおさらである。

 

特に最近気になっているのが、妻が何でもかんでもスープにすることである。

私の中ではレタスやミニトマトはスープに入れる野菜ではない。

レタスに火を通すのは、古くなったものをチャーハンに混ぜるときだけである。

そもそも火を通さないと食べるのが心配なくらいまで葉野菜を放置しない。

それを話すと「えっ、でも普通にスープに入れたりしない?」と返される。

しない、しないのだが、そう当たり前みたいに言われると、「お互いの当たり前が違うだけだね」で片付けざるを得なくなる。

たぶん本当にお互いの当たり前が違うだけなのだろう。

正解なんてないのだと思う。

だから受け容れるのだが、そんな細かいことを積み重ねるたびに表題のような感想を噛みしめることになる。

 

わりとオープンにいろんなものを受け容れるスタンスで生きているつもりだが、自分が思うよりずっと「これはこうでなければならない」というポリシーが強いようなのである。

そういう自分の頑固なところが良くないなと思うので、ぐっと飲み込んでいろんなことを受け容れるようにしているが、今度は意外とそれがストレスだなと感じ始めている。

もうちょっと柔軟になりたい。

でも、やっぱり論理的でないことは受け容れられない。

そんな狭間で、とりあえずは当たり前が当たり前でないという当たり前を自分に言い聞かせている。

そう、妥協と譲歩。

世の中って、そうやって違いを受け容れることの積み重ねなのである。

徒然とダラダラって同じようなものかもしれない

生きていると、ときどきフワッとした浮遊感を覚えることがある。
こういう感覚は言葉にするのが難しいのだが、幽体離脱するような感じだと言えばいいだろうか。
もちろん本当に魂みたいなものが抜け出すわけではなく、それはあくまで比喩であり、実際には自身への客観視が極端になるということだと思う。
自分が今ここにあることへの不思議と無意味が虚無感とともに頭から抜けるように立ち昇る。
掌を眺め、無駄に閉じたり開いたりして、これが現実であること、意識の主体が身体を伴っていることを確認したりする。
そのことにも大した意味はない。

意識とか精神とか魂といったものは、須らく脳内の電気信号である。
つまり身体(脳だけでもいいのかもしれないが)が存在して初めて発現し、機能する。
私は「頑張る」ことを軸とした精神論は嫌いではないが、現実的には物心二元論みたいな考え方はあり得ない。
世の中はどこまでいっても「物理」である。
これは学校で習う物理という科目ではなく、エンターテイメントとしてのゲームでいう魔法や精神に対する物理である。
目で見て触れられるものと言っても良さそうだが、電気信号などは見えもせず触れられもしないので、やはり少し違う。
何が言いたいって、気の持ちようで変わることはたくさんあるが、気持ちではどうしようもないこともたくさんあるということ。

新居の少し持て余すくらい広い部屋は、何もせずにいると静けさが際立つ。
妻は物が少なく味気ない部屋を嫌ってか、壁のあちこちに剥がせるウォールステッカーを貼ったり、装飾になるような写真や模擬植物を配したりと、自分が満足できる空間を作ることに余念がない。
私は日々増えていくそれらをなんとなしに眺め、「あぁ、また増えたな」とただそう思う。
興味はないので、好きにしてくれたらいい。
食事をするダイニングと別にリビングがあり、テレビはリビングにあるのだが、私はほとんどリビングに立ち入らないのでテレビもまた見なくなった。
家でさほどくつろぐような時間はない。
仕事を終えて、飯を食って、そのままダイニングで腹を落ち着かせてから洗い物をすれば、すぐに風呂に入って寝る時間になる。
そういう淡々とした日常が送れることは嬉しい。
退屈に思うこともあるが、望んで手に入れたものだから。

世の中はハロウィンだとかで賑やかである。
興味がなさすぎて言及することさえ思いつかない。
とりあえず、今電車の座席でスマホでブログを書いているのだが、向かいの席の若い女性がハロウィン帰りのようである(ハロウィン帰りってなんだ?)。
目の下のハートマークのメイクがそのまま残っている。
やけに丈の短いスカートは仮装の衣装そのままのようで、その上にファーのコートを羽織っている。
疲れた表情は「残骸」という言葉が相応しく、「魔法が解けたシンデレラのようだ」とはお世辞にも言えない。
とりあえず、その短いスカートで脚を組み替えたりされては、オジサンはとても気になる。
そういうのは綺麗とか汚いとかとは別の話。

少し肌寒くなってきた。
風邪も流行っているが、風疹も流行っているらしい。
妊婦が感染すると大変だということで、しばらく前に私も予防接種を受けてきた。
私の年代は風疹予防が義務付けられていなかったそうである。
散々「副反応で数日後に発熱します」と脅されていたのだが、そんなことはまったくなかった。
だから効いているのか疑わしく思ったりもする。
言い出したらキリがないが。
風邪もひかない方がいいだろうと思って、最近マスクをしている。
予防への効果は疑わしいらしいが、しないよりはいいだろう。
ただし出かけるときに付け忘れるので、会社に常備しておいて、社内と退勤時に付けている。
なんとも中途半端。
そういえば、風邪はひいていないが、しばらく口内炎に悩まされていた。
放っておけば治るだろうと思っていたが、内側の歯茎にできてしまって、常時舌が当たって治らない。
食事のたびに痛くてストレスだったのだが、会社でそんな話をすると「塗り薬ですぐ治るよ」と教えてくれた。
口内炎ごとき」と思っていたが、試しに買って塗ったらすぐ治った。
私は頭の固い人間を自認しているが、人のアドバイスは素直に聞く方がいいときもあると再認識した。

妻の腹の子は男の子らしい。
エコーの写り方によっては判別の怪しいこともあるようだが、今回は「間違いないでしょう」と医者に太鼓判を押されるくらい、ついてるものがついてたらしい。
私はどちらでも良かったが、義父は喜んでいたそうである。
義父は養子で、その義父もまた養子、妻の実家は一般的には「女系」などと言われるのだろう。
科学的には男女の別は50:50、諸条件で数%前後する程度のようなので、偶然や迷信の類と言われるようなものではある。
ただ迷信というのは解釈の問題であって、科学的に不適当だと言ってしまうようなものでもないと思う。
義父やその義父、あるいはその妻らが負った男児を産むことへのプレッシャーというのは、それなりのものであっただろう。
「女系だから仕方ないね」というのは、家族にとって最も納得のいく、気持ちを落ち着かせる解釈だったかもしれない。
さておき、そんな背景を知らない人たちの勝手な予想というのは、みんな「男の子じゃない?」というものだった。
競馬だったらオッズ1.0倍。
賭け事が成立しないレベルで妻や私の友人たちは好き勝手言っていた。
理由は「なんとなく」なのだから、それが的中してしまう偶然というのは恐ろしいものである。
まぁ、かく言う私も「どっちだと思う?」と聞かれて男だと答えていたのだが。

本当は今回書いたことを、もっと1つ1つ膨らませて1記事ずつ書きたいところだったのだが、時間がないのでダラダラまとめて書いた。
まとまりがないけど、消化不良になるよりマシか。
ちなみに競馬、先日の天皇賞・秋3連単が的中した。
前日のスワンS3連単はモズアスコットが差されて惜しい形で取りこぼしていたので悪い流れかと思ったが、より大きいものが後ろで控えているありがたい流れだった。
これで今年も収支プラスの逃げ切りをかけられるかなぁ。
そんなこんなで、言ってる間に忙しい年末が見えてきそうな今日この頃。

パラスポーツポスターへの批判について思うことから伸びていく思考

mainichi.jp

 

このニュースを見たとき、何のことかすぐにピンときた。

私は通勤時の乗換駅として東京駅を利用している。

しばらく前からパラスポーツのポスターが貼られているのも見ていた。

今回、批判の対象となったポスターを直接見たことはないが、他のポスターも同じようなテイストで作られている。

だから「あぁ、きっとあのポスターのどれかなんだな」と思ったのである。

今回のポスターについては選手本人のコメントを一部抜粋して作れらているのだが、実際のコメントの全文を読めば選手の言いたいことはきちんと伝わるし、特に問題があるとは感じない。

要は誤解を招くような抜粋の仕方をした製作者側に非があるわけで、それで即時撤去となったようである。

 

個人的には、今回東京駅で掲示されているポスターは好きだ。

批判の対象となったポスターは「障がい」という言葉が入っているので少し違うが、パッと見たときにパラスポーツのポスターと気づかないようなものもあったと記憶している。

パラスポーツの「パラ」の部分ではなく、「スポーツ」の部分に焦点を当てたようなものが多く見られた。

私は学校の部活動を中心にスポーツに長く取り組んできたが、パラスポーツにはあまり詳しくない。

だから実際どうなのか知らないが、たぶん一般的なアスリートもパラアスリートも競技に向き合う姿勢は同じくらい真剣なものなのだろう。

それでもパラスポーツを通常のスポーツと比べて一段下に見るような風潮は世の中にあると思う。

私の中にもある。

その姿勢にフォーカスしたようなポスターを見て、自分の中でパラスポーツを低く見るようなところがあったことに気づかされた。

だから素直に面白いポスターだなと思ったのである。

それが行き過ぎて批判を浴びたのであれば皮肉だなと思うが、それよりは単に語感を優先して文章を端折ったせいで起きた問題だと思うので、まあそういうこともあるわな、といった感じがする。

作っている側は元の文章(全文)が頭にあるので、自分の頭の中で意味を補足して読んでしまうのだろう。

 

さておき、障碍者への接し方は難しいなと思う。

それは具体的に何をどうすればいいかわからないからではなく、自分がしたことを相手がどう受け止めるかわからないからである。

可能な限りの配慮を求める人もいれば、可能な限り健常者と同じように接してほしいと思う人もいる。

こちらが良かれと思ってやったことで不快な思いをさせたり、逆に配慮が足りないと言われることもある。

いや、そんなことは障碍者に対してに限らず健常者に対しても同じことなので、つまり何をどうやったってうまくいかないときはうまくいかないのだと、半ば投げやりになってめんどくささを感じてしまう。

それは普段から人間関係からそうで、だから私は相手に自分の真意が伝わらずに嫌われてもいいくらいに思って生きている。

相手が障碍者でも同じである。

つまり私はほとんど障碍者に対して健常者と同じように接していると言えるかもしれない。

 

まぁ「健常者」と言っても、何が「健常」なのかよくわからない。

それは何をもって「普通」と言うのか、と同じ問題である。

一般的には「日常生活を支障なく送れること」などと言われたりするのかもしれないが、そこで言う「日常生活」とはどこまでの範囲を指すのだろうか。

スポーツをすることは日常生活なのか、ディズニーランドに行って楽しむことは日常生活なのか。

そういったものを含めて障碍者が健常者と同じように生活できるようにすることをノーマライゼーションと言ったりするが、ノーマライゼーションが進むということは障碍がハンディキャップでなく特徴や個性として扱われるということにならないだろうか。

そういう意味では、「障がいは言い訳」になる社会が理想的なのではないかと思えなくもない。

とかなんとか、ぐるぐる考えていた。

 

人間それぞれ多種多様で、いろんなことが得意でいろんなことが苦手だったりできなかったりする。

そういう意味では皆なんらか「支障」になるようなものを抱えていて、なんとかうまく合わせたり、合わなくてはじかれたりして、生きているのだろう。

むしろ「生きづらさ」を感じたことのある人の方が多いのではないだろうか。

皆が「普通」から外れたものを持っていて、そのベクトルが違うだけのような気がする。

まぁ、それでも自分は「普通」だと思っている人がいたり、逆に自分だけが「異常」だと思ってしまう人がいたりして、人間ってめんどくさいなと思うのである。

自分も含めて。